渦 その12
どうも、たけです。ざっくばらんに。
ブレイキングバッドを見たとメタ
ブレイキングバッドを見た
以前から友達が薦めていて気になっていた海外ドラマの「ブレイキングバッド」を一気見した。どのくらい一気見したかというと、20時間見て、3時間寝て、また15時間見る、みたいな感じである。おかげでFitbitによる睡眠計測結果が荒れ果てていた。
べらぼうにおもしろかった。僕の海外ドラマの経験値は昔に「プリズンブレイク」をシーズン2まで見たくらいだったので比較対象はあまりないが、これはとにかくすさまじかった(プリズンブレイクはそうでもなかった)。長いので見るのは大変だけれど、長い分それだけ丁寧にいろいろ描かれているし、常におもしろいので大満足である。同じような内容と提示物だったとしても、それをしっかりと時間をかけて徐々に起こる変化として演出されると、2時間に凝縮した映画とは体験として全く別物になる。長編ドラマの良さというのをしっかり体験できたと思う。
wikiに下記のような記載がある。
批評サイトのMetacriticでも非常に高い評価を得た。シーズン1は100点満点中74点、シーズン2は100点満点中85点、シーズン3は100点満点中89点、シーズン4は100点満点中96点とシーズンを重ねるごとに評価は上昇していき、シーズン5は100点満点中99点のスコアを得た。シーズン5のスコアによりギネス世界記録に歴代で最も高く評価されたテレビシリーズとして認定された。
100点が付くことにも何の異論もない。
次はスピンオフの「ベターコールソウル」に進むが、こちらはもう少し落ち着いたペースで見ていこうと思う。
メタ
さて、見終わった後、達成感からツイートをした。まずは下記のようなツイートをした。
「ブレイキングバッド」を一気見した。尋常じゃないおもしろさやった。
しかし、恥ずかしくなって次のツイートを投稿しなおした。
「ブレイキングバッド」を一気見した。尋常じゃなくおもしろかった...
前者は、「ブレイキングバッドはおもしろさを持つ作品だった」という分析結果を述べており、後者は「おもしろく感じた」という感情的な感想を述べている。前者ではメタ視点で語っていて、いちいち分析的に見ようとする悪い癖が出ていた。自分を創作者側においてそういうメタ視点で作品を批評しようとするのは別に悪いことじゃないが、見た直後くらいは体験としての一人称的感想を味わうべきである。そういう一時的な感情をもう少し大事にしていきたい。
リモートボードゲーム
以前オンラインボドゲをオススメする記事を書いたが、今日は友人とリモートだけれどオフラインなボードゲームをした。
- 電子化されていない(オンラインでやりようがない)
- 完全情報公開ゲームである
- 双方が同じボードゲームを持っている
- 場の情報を共有するための十分なカメラ台数がある
などの条件をクリアすればこれがありになる。
今回は「ガイアプロジェクト」をした。これは一回3時間ほどかかる重いゲームであるが、何度もやりたいのでリモートでできるとありがたい。重いゲームなのでやる人が限られていて、そのやる人である友人と二人ともが持っているのは無駄だと思っていたが、ついに有意義になった。
実際やってみると、特に不満なく、予想よりもずいぶん快適にプレイできた。それぞれで同じ盤上の状況を再現しながら、自分の行動を口に出してやっていく。時々状況の確認をすれば安心である。今回は即興で俯瞰カメラを用意したが、これはあった方がいいっぽい。google hangoutを使えば同じgoogleアカウントで複数のデバイスから同じ部屋に接続できるので、PCにつないだwebカメラとiPadでそれぞれ違う映像を共有できる。
飽き
コロナの状況に若干の飽きが出てきた。新しい動きがあまり出てこなくなったからかもしれない。また、ひたすら「ブレイキングバッド」に集中していた3~4日が現実と離れすぎていて、コロナニュースを追いかけていた習慣が途切れたからかもしれない。
次は連休明けからの宣言解除がどうなっていくかである。自分にも飽きが来ているということは、世間的にもきっとそうである。飽きたところでどうしようもないのだが、危機感によって成り立っている自粛がどれだけ継続できるかには飽きの有無は重要なファクターである。引き続き、それなりには注視していきたい。
渦 その11
どうも、たけです。今日は
- 「世帯主にまとめて給付」に関する追記
- 給付金の不申請・寄付圧力
の二本です。
「世帯主にまとめて給付」に関する追記
いろいろ気になったので、昨日のその10で「世帯にまとめて給付」に関して追記。そもそも「世帯」とは何かを調べてみると、厚生労働省の文書にはこう書いてある。
世帯とは、住居及び生計を共にする者の集まり又は独立して住居を維持し、若しくは独立して生計を営む単身者をいう。
「生計を共にする者の集まり」が世帯なのだから、世帯ごとに給付することの妥当性は強いように思う。婚姻と世帯統一がセットというわけでもないらしい。「今思えば世帯を分けるべきだった」という愚痴や、「世帯、分けといた方がいいよ」という啓蒙であるなら納得する。
他の場合はどうなのだろうかと少し調べると、例えば国民健康保険料は加入者のいる世帯の世帯主にまとめて請求されるらしい。今回の給付金が世帯主にまとめて払われることに不満がある人は、世帯主がまとめて支払うパターンにも不満を抱くべきである。一方で、住民税は世帯主ではなく個人に課税されているっぽい。このあたりの統一性のなさは確かに気になる。収入のない子どもに独立して世帯主になる選択肢はないので、そのあたりがポイントなのだと思う。これ以上調べるほどのモチベーションはなかったのでここで終わり。
給付金の不申請・寄付圧力
広島県の湯崎英彦知事は21日、新型コロナウイルスの緊急経済対策として県職員が国から受け取る現金10万円を、県の対策事業の財源に活用したい考えを表明した。自主的な寄付として募り、新たに設ける基金に積み立てる手法などを念頭に、仕組み作りを急ぐ。
こういう発想は当然出るだろう。あくまで「自主的な寄付を募る」のであれば問題ないっちゃ問題ないが、「圧力」が発生することに批判があるのだろう。また、給付金を申請しないことを是とする考え方や圧力も発生しているということ。
それが気に食わないとして、じゃあ何が問題なのか考えるためには、やはりそもそも給付金がどういう理屈で発生しているのかを気にしなければならない。ポイントは「本来給付されるべきでない人間が、迅速さを重視したが故の全員給付によって、不適切に給付を受けている」とみなせるかどうかである。これをその2で挙げた4通りの論拠でそれぞれ考える。
- 活動を休止してもらうための安心材料としての補償
- 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償
- 弱者(になった人)を救済するのための保障
- 経済を回すためのばらまき
1の場合、休業を要請されているわけでもなく、収入も減っていない県職員は本来受給すべきでないという発想が出るのはわかる。しかし、そもそもこういった補償は休業に対するものだけとは限らない。その2 の「生活の維持」の節で以下のように書いた。
一方で、政府としては「生活の維持に必要な業種には引き続き継続するよう求める」ということである。こっちも気にすべきではないか? こういう業務の中には人より多くの感染リスクを引き受けることによって成り立つものもあるはずである。ならば、その感染リスクに応じた補償だってするべきである。
仕事を続けていて収入が減っていない県職員も、「生活の維持のために仕事を続けさせられている」という点で給付されるべくしてされていると考えることができる。
この考え方でいくと、本来受給すべきでないのは「感染リスクを負わずに通常営業を続けており収入も減っていない人」である。緊急事態宣言や外出自粛要請により経済が低迷した悪影響は全員が受けると仮定すれば、全員が正当に給付の対象となる。
「2. 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償」の場合、緊急事態宣言や自粛要請が全国的に発令されているからには、全員が給付されるべきである。ただし、この場合は自粛要請などに応じていない人は受給すべきではないと言えるかもしれない。「みんな間接的に何かしら制限を受けている」と仮定すれば全員給付を肯定できる。
「3. 弱者(になった人)を救済するのための保障」の場合、迅速さ優先のためにしかたなく「余裕がある人」にも給付されてしまっていると考えることができ、それを「余裕がない人」に回せるに越したことはないと言える。ここでポイントとなるのは、政府が今後この仕方なさに対する匡正の実行を予定しているかどうかである。政府が「とりあえず全員に給付して、余裕のある人からはあとで何らかの税金なりで回収する」と予定している場合、自主的な再分配は不要である。
「4. 経済を回すためのばらまき」の場合、市場にお金がたくさん流れればいいと単純に考えると、別に余裕がある人にお金が入ったとしても消費さえしてくれればいいということになる。この場合に発生しうる心配事は大きく以下の二点である。
- 各個人は貯金せず消費してくれるのか?
- 「適切なところ」にお金を使ってくれるのか?
(貯金されたお金はそれはそれで銀行が何かしらに使うのかもしれないが、その辺はよく知らない)
こういった心配をする人は「余裕がある人からは給付金を誰かが取り締まって適切なところに使うべきだ」と考えるかもしれない。余裕があるかどうかの判断をどうやってするねんという話であり、そうすると「その判断が難しいから全員給付にしたんやろがい」というところに戻ってくる。今回取り上げたニュース記事のような話は、「自分たちの集団はその判断が容易なので、給付金を回収します」という話なのだと思うし、それはそれで妥当性がないとは言えない。
結局のところ「圧力をかけるな」という話である。今さまざまな分野が瀕死の状態で、「どこにお金を使うか」というのが「何を生き残らせるか」の投票行為となる。給付金を受け取らないということは投票先を行政に任せるということである。行政を信頼し、任せたい人はそうすればいい。給付金を自分の支配下に置いて、好きなように投票先を決めるのでもいい。その投票先を自分として貯金してもいい。そういうものである。
単に「余裕があるので行政に寄付します」という行動の手段として「給付の申請をしない」を選ぶというのは別に筋が通らない話ではない。ただ、大した論拠もない「雰囲気」によって選択の自由度が下げられるようであれば、不快である。
渦 その10
どうも、たけです。渦 その何番までいくのでしょうか。
世帯主にまとめて給付
まずは国籍など関係なく全住民が対象となったことに安心である。しかし、懸念事項もあるようだ。
世帯主の口座に、家族の給付金がまとめて振り込まれることになるよう。全ての家族が”円満”であれば、機能するのかもしれない。でも、その世帯主がDVや虐待の”加害者”になっていしまっているのなら、給付金がその口座に集中することで、余計に支配関係を強めてしまう。https://t.co/iA0RwyPial
— 安田菜津紀 (@NatsukiYasuda) 2020年4月20日
こういう懸念が発生するのはよくわかるが、これに関しては「しかたない」という印象を持った。個別に振り込むとなると、
- 口座を持っていない人はどうするのか
- 手続きを行う能力がない子供や要介護者などはどうするのか
などの理由で手続きの手間がとんでもなく増幅する(世帯主にまとめたとしてもこれらの手間は一定量残るが)。「なるべく個別にしてくれ」は「迅速に給付すべき」と衝突するし、あるいは「個別に受け取る能力のない人」を置き去りにするリスクを増やす。
「まとめて」でもできるし「個別で」でもできるような選択制にするというのもあるかもしれないが、選択制にするだけで十分に複雑化しすぎるし、懸念されている支配的な世帯では「個別で」を選択できなかったり、個別に給付されたところで搾取される可能性が高いのではないか。
もちろん、このような視点で問題の存在を啓蒙することに意義はあると思うし、”余計に支配関係を強めてしまう”という可能性には同意する。ただし、世帯ごとにすることで給付手続きを簡易化できるメリットの見込みと、給付を個別にすることで支配関係の強化を防げる見込みの比較では、前者の優先度が高いように思う。後者の考慮も必要なことではあるが、給付方法を個別にすることで解決するわけではない別次元の問題であるように思う。
「コロナ離婚」などという言葉もあるが、コロナ禍により社会との接続が弱くなった結果DVやネグレクトなどの家族問題が悪化しているであろうことについては痛ましく思う。
強い休業要請
休業に応じないパチンコ店などに対し、公表を伴う休業要請などの強い措置を検討とのこと。えぐみがある。「感染拡大防止協力金」が「太陽」的なやり方なら、これは「北風」のやり方である。「公表」というやり口は市民による私刑を推奨していて嫌いだ(この印象は記事終盤で改められる)。
太陽
東京などでは独自に「感染拡大防止協力金」などの制度が実行されている。給付金の在り方をその2では以下のように分類したが、協力金はそのうちの1に該当する。
- 活動を休止してもらうための安心材料としての補償
- 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償
- 弱者(になった人)を救済するのための保障
- 経済を回すためのばらまき
「安心材料」というのは少しあいまいな言い方だったが、要するに「休業した方が得になる条件」を与えることで休業してもらうということである。そのため、本来は「営業し続けた場合の得」を基準にし、「休業した場合の得」がこれを上回るように個別に協力金を設定すべきである。本来、コロナ禍でもばりばりに儲けている店に休業してほしければよりたくさんの協力金を出さなければ釣り合わない。
今は迅速さが必要なのでそこまで配慮できないし、コスパよく休業してもらえるところだけを相手にするのは効率的でいいと思う。他の競争相手が休業することで自分の店のパイが増えることもあるだろうから、駆け引きをしだすと複雑になりすぎる。
北風
こういった協力金の制度がない場合(あるいは不十分な額しかでない場合)において、要請を受けているにも関わらず営業を続けている店舗は当然発生する。それに対し、その公表を伴う強い休業要請を出すことができるらしい。これは北風的なやり方である。補償なき要請が緊急事態宣言の効力で認められていることには不満を抱く。その不満からの八つ当たりで、営業しているパチンコ店を公表した結果、打てる店舗を把握したコロナを気にしないヘビ―パチンカーがわんさか集合してほしいなどと思ってしまう。
「公表」のニュアンス
ほんとに補償が伴わない強い指示なんかがまかり通っているのか気になって、記事で示されていた「改正新型インフルエンザ対策特別措置法」の第45条を見てみた。そのうち3と4を以下に示す。
第四十五条
3 施設管理者等が正当な理由がないのに前項の規定による要請に応じないときは、特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため特に必要があると認めるときに限り、当該施設管理者等に対し、当該要請に係る措置を講ずべきことを指示することができる。
4 特定都道府県知事は、第二項の規定による要請又は前項の規定による指示をしたときは、遅滞なく、その旨を公表しなければならない。
3の「当該要請に係る措置を講ずべきことを指示することができる」 の部分で強い指示が認められている。
4では「指示をしたときは、遅滞なく、その旨を公表しなければならない。」とある。新聞記事を読んだときは「公表」という晒し行為によって強制力を生み出す戦略かのような印象を受けたが、原文を見ると発動された権力の可視化のための「公表」のように受け取れる。そうであれば、上で僕が書いた”「公表」というやり口は市民による私刑を推奨していて嫌いだ”というのは誤解ということになる。特措法第45条へ、ごめんなさい。ただ、そういうわけなので公表は「晒す」感じにならないようにしてくれよな!
以上。
渦 その9
どうも、たけです。コロナがくそヤバイ。今日も不要不急の雑記。
コロナ禍ではさまざまなキーワード(流行語)が使われているが、その中でも「不要不急」という言葉の印象が強い。今から自分がしようとしていることは「不要不急」か?と考えるとき、その天秤の片方には「命」が既に乗せられている。しかし、そのもう一方に乗せようとしているのもまた命をつなぐための経済活動だったりする。
コロナ禍が落ち着くためにはいくつかのルートが考えられる。
- 特効薬やワクチンの開発と普及を待つ
- 諦めて全員で緩やかに感染する
- コロナが何回でも罹患する病だとわかるなどして絶望する
とか。いずれにしても、目標は「救える命を救うために感染爆発による医療崩壊を防ぐ」とするしかない。そうすると不要不急の集合を制限する必要性は発生する(そうしない場合は医療崩壊を防ぐ方法が「ある条件を満たす人にのみ医療を提供する」になってくる)。そして、そういう状態が「一か月我慢すれば終わる」というものでもない雰囲気が漂い始め、きつさが増している。
命と命の天秤だけではない。命と比べればずいぶん軽そうなものとの天秤もまた、やっかいである。下記の記事のある部分にひっかかった。その1でも参照した「革命家」の記事である。
この〝不要不急の外出〟闘争についてSNSでもっともらしく〝批評〟し合っている口舌の徒や、おとなしく活動自粛して自身の表現など字義どおり〝不要不急〟のものでしかなかったことを自己暴露してしまったサブカル連中など、歴史の屑かごに放り込まれるに任せよう。
天秤の一方に命を乗せられた状況で余儀なくされた苦渋の「自己暴露」に対して、実に辛辣な意見である。こういう選択もまた「一か月我慢すれば」という認識を取るかどうかによる。長期戦を覚悟すればするほど、”歴史の屑かごに放り込まれる”ことはリアルになる。
例えば、ハンコは死ぬ可能性が高い。これはそれでいい例かもしれないが、例えば「対面授業いらないじゃん」という勢力も出てくる。そして何より、今後、ライブ会場の設備拡充にお金を費やす気になるか??というようなこと。いつでも突発的な感染病で活動停止するリスクを常に抱えた状態では、夢見る光景は変わってくる。
さて、現在僕は名目上は人命救助に関わる研究に取り組んでいるが、別にそのテーマに熱意はなく、これを修業として将来は不要不急のエンターテイメント製作に関わりたいと思っている。自分もこういうことしたいな~と思って眺めていた会社は現在休業中である。不要不急だから、仕事が全部飛んだらしい。僕はまだ「もどき」でしかないが、今多くのアーティストやクリエイターは本格的に悩んでいることと思う。自分の仕事は不要不急なのか?
一方で、今人々が家にこもって何によって幸福度を高めているかというと、それは何らかのエンターテイメントである。エンターテイメントは幸福度向上に貢献する。しかしながら、それは不要不急の集合を控えてのんびり家で娯楽を楽しめている人が対象である。その程度に余裕がある層をターゲットにすることの是非。
あるいは別の考え方をすると、経済的には豊かでも幸福度が低い人だっていて、その人たちの幸福度を高めることができるなら、それは十分有意義だとも思う。僕にも今すぐあの曲を聞かなきゃ死ぬ夜がある。何が「必要緊急」で何が「不要不急」かなんて人それぞれで無限に多様なのに、命を天秤にかけることで公共性の重圧が重くのしかかってきて、あれもこれも不要不急になっていく。不要不急のない人生とは?
Twitterで最も信頼のおける知性であるPsycheRadio氏がよく「自由より秩序、権利より安全というのが大勢になってきている」と書いている。
もう自由より秩序,権利より安全というのが大勢になってるからそういう国の方が理想になるラジよね。
— PsycheRadio (@marxindo) 2020年4月15日
僕自身も公共性の波にのまれているのだと思う。世のために自分をどう使うべきかと考えてしまっている。「ただ作りたいから作る」とか、「ただ見せたいから見せる」とか、そういうことに罪が乗るようになってしまった。なにもしていないことに罪悪感を背負わされている。能力だって再分配の対象ではないのか。
とか、言いつつ、結局のところは目の前の娯楽を追いかける人生に舵を切るべきだし、そうしかできないと思っている。風向き通りに進むのが一番進む。自分に与えられた才能通りのこと、素朴な志向通りにやりたいことをやることが最も生産性が高いとすると、それがなんにせよ最も世界を豊かにする。最も利己的な行動が最も利他的な行動でもあると信じたほうが生きやすい。生きやすいことはいいことである。自分に対して生きにくい思想を課すことは他人に対してそれを課すのと同じである。全員で生きやすく生きるためには、その対象に自分も含めなければならない。
きみとして今できるたった一つのこと、それは芝居をやることさ。
神のために芝居をやれよ。J・D・サリンジャー『フラニーとゾーイ―』
何かの才能を持って生まれた人は、それが不要不急であろうとなんだろうと、それに取り組んでほしい。それができる世界を望む。難しいのは、そこまで尖った志向があるわけでもなく、選択肢がいくつかある人間が、この世界で何を選ぶべきかである。適当でいいか。そのとき決める。
とりあえず自分はしばらく生きていけるし、セーフティネットも豊富で安心している。のんびり、世界がどう変遷するのか、このまま高みの見物をしていればいい。変なプライドとか自負とか被害者に参加したい気持ちなんてフェイクである。全員死ね!
オンラインでできるおすすめボードゲーム
どうも、たけです。オンラインでプレイ可能なボードゲームを紹介します。調べれば無限に出てきますが、ここでは僕にとって身近なものに限定します。オンラインでボードゲームができるサイトと、その中でのおすすめゲームを列挙してきます。基本的に僕がやったことあるゲームしか対象にしていないので狭いです。
オンラインボドゲの特徴・コツ
オンラインボドゲはコマなどをわちゃわちゃする楽しさがないのは少し寂しいです。しかし、逆に言うとセットアップや細かい処理の手間が省けるのでサクサク進んでかなり楽です。
自動化されている分、ルールをしっかり把握していないと意味が分からないまま処理が進んでしまうので、それには注意しましょう。慣れないうちは誰が何をしたのか追いきれないので、電話をつなげているなら「今自分が何をしたか」を口頭で説明するのが親切です。画面はでかい方がいいです。
オンラインでいきなりルールを学ぶのは割と難しいので、リアルでやったことがあるものをするのが最初はとっつきやすいです。ただし、オンラインもさくさく進む分短時間で回せるので、「とりあえずやってみる」の精神で新しいゲームにチャレンジしてみてもいけるっちゃいけます。
Board Game Arena
Play board games online! • Board Game Arena
見た感じ一番しっかりしたサイト。ゲームの種類がかなり豊富なのと、ターンごとに時間制限を設定できたりちゃんとしている。日本語化されている。課金してるとできるゲームが増える。テーブル作成者が課金していれば、他の参加者は課金していなくても参加可能。課金額は月540円のプランか年3240円のプランか。
たけがやったことあるうちでおすすめゲーム。
[ 無課金 ]
- 花火
- Seasons
- ダイスフォージ
- ドラゴンイヤー
[ 要課金 ]
- すしゴー!
- 7 Wonders
- カルカソンヌ
Yucata
Yucata - Sun Temple of the Maya
いろんなゲームができるが、どういう収益構造で成り立っているのかよくわからない。ゲームの種類は豊富。
たけがやったことあるうちでおすすめゲーム。
- マルコポーロの旅路
- ファーストクラス
は結構やったので自信をもってオススメ。
- Navegador
はリアルで一回やっただけでオンラインではやったことないが、有名な作者のなのでよさげだと思う。
特にマルコポーロはやりこみ系なのでオススメです。一時ブームがあって、僕は対戦データをつけて分析も楽しんでいた。いろんなキャラを使えるので何度もやりたくなる。
Dominion Online
ドミニオン専用。かなりしっかりしている。日本語にも対応。課金すると使える拡張が増える。対AI戦も可能なので修業にも使える。ドミニオンはボドゲの基礎をいろいろ学べるし、とっつきやすいし、初オンラインの人には一番オススメかもしれない。
以上!
今後増えてきたら加筆していきますね。
渦 その8
どうも、たけです。今回はコロナ禍の世界において現金一律給付をした場合にどのような変化が起きるかについての考察です。
1 はじめに
1.1 考察遊び
経済学の知識が乏しい状態で連日こういうトピックについて語っているのが恐れ多くなってきた。友人によるとやや緊縮よりだったり財務省よりの思想が見られるらしい。と言いつつ、今回のブログでも懲りずにその辺りを語る。逆に知識がない分、今はネタバレなしで自発的な考察を楽しめる。それに、ある前提を認めてしまえば、それ以降の論理展開に知識の有無は関係ない(前提が不適な可能性はある)。また、今度彼らとの読書会で経済学系の本を読むことになりそうなので、今の自分の考え方がどういう立場に該当するのかを後で答え合わせをするというのも一興である。
1.2 なんとなくの立場
まず、僕はなんとなく「今きつい人にさっさと給付金をあげてほしい」と思っている。素朴に、たまたまコロナによるダメージが大きい境遇にいた人に同情する気持ちがある。また、生活保護頼りではダメな理由として、そういう人たちがこの苦境を耐えて事業を継続できた方が後の社会が豊かそうだからというのがある。
困っている人にだけ給付されればいいと思っているが、線引きもむずかしいし、速度も大事なので、全員給付しかないのではとも思っている*1。とりあえず配っておいて後で余裕のある人から回収するというひろゆき案もよさげである。
1.3 違和感
そんな感じで、なんとなく給付金は出してほしい。だからといって、その配るお金がどこにあるのか知らない。国はお金を無限に発行できるといっても、雑にそんなことをしたら教科書で見たことのある悪いインフレになるんじゃないかと心配になる。その辺の経済知識がないので、とりあえずややこしいんだろうなぁと思ってその4では以下のようにを書いた。
弱者救済的なことを考えるときに、「再分配」と「新分配(言葉は適当)」みたいなものをちゃんと分けて考えないといけないように思う。余裕のある人からお金を取って余裕がない人に渡す再分配をすべきという主張なのか、お金を新しく刷って配るべきという主張なのか。経済のことはよくわからないが、僕の感覚では再分配はやってほしいが新分配はよくわからん。世の中に価値が生み出されていないのにお金だけ発生するのはシンプルに違和感がある。
ここでは適当に「再分配」と「新分配」という言葉を使っている。この後も使う。僕はこのうち「新分配」に対して違和感を抱いている。今回はこの「違和感」について掘り下げる。なぜここに違和感を抱いたかというと、コロナ禍の世界では価値創出活動が停止させられるからである。この違和感を説明できるようになってきた上に、新たな発見があったので、説明する。
2. 現金給付の思考実験
現金一律給付を行った場合に何が起こるのか、思考実験してみる。何度でも断っておくが、これからの話というのは、経済学的に通用する前提やモデルなのか知らない人間によるお遊びである。
2.1 財の総量と貨幣の総量に関する仮定
まず、世の中に流通する「貨幣と交換しうる財」(以下「財」)の総量を考える。この財というのは物質的なものでもサービスでも、貨幣との交換価値があればなんでもいい。そして、世の中に流通する「貨幣」の総量というのも考える。そしてこれらの間に次の「仮定*」を置いてみる。
仮定*:財の総価値と貨幣の総価値は釣り合う
例えば、流通する財の総量がコーラ100瓶、貨幣の総量が10,000円であるとする。ここに仮定*を適用すると、コーラ1瓶の価値は100円に相当することになる。もしコーラの数はそのままで貨幣の総量が20,000円になればコーラ1瓶は200円相当となる。
2.2 初期状態
次に、ここに人間10人と貧富の差を導入し、AさんとBさんに注目して次のような状態を設定する。
【状態A】
財の総量:コーラ100瓶
貨幣の総量:10,000円
⇒ コーラ1瓶の価格:100円Aさんの所有価値:2000円 = コーラ20瓶
Bさんの所有価値:500円 = コーラ5瓶
この【状態A】が今回の思考実験の初期状態である。仮定*により、コーラ1瓶の価格が100円になっている。
2.3 給付による変化
ここからは、「新分配」のために新しく貨幣を発行し、一人あたり100円の一律現金給付を行った場合の経済状況の変化を「平常世界」と「コロナ世界」についてそれぞれ考えてみる。
2.3.1 平常世界モデルの場合
給付金によって人々のコーラを買う余裕が増えて需要が高まり、それに伴ってコーラの供給量も増える。ここでは「貨幣の総量の増加率」と同じ割合でコーラの総量が増加すると仮定すると、【状態A】は次の【状態B】に変化する。
【状態B】
財の総量:コーラ110瓶
貨幣の総量:11,000円
⇒ コーラ1瓶の価格:100円Aさんの所有価値:2100円 = コーラ21瓶
Bさんの所有価値:600円 = コーラ6瓶
貨幣自体は交換しない限り役に立たず、生活の豊かさに影響するのは入手可能なコーラの量なので、コーラ換算でだけ個人の所有価値を考える。AさんもBさんもコーラ換算で所有価値が増えており、みんなの生活が豊かになった。
2.3.2 コロナ世界モデルの場合
コロナ世界では、新規の価値創出が停滞すると仮定する。その仮定をこのモデルには「コーラの供給量を増やせない」として反映させる(なんなら減らしてもよいが)。なので人々が所有する貨幣が増えて余裕が生まれても、コーラの供給量は変わらない。すると、次の【状態C】となる。
【状態C】
財の総量:コーラ100瓶
貨幣の総量:11,000円
⇒ コーラ1瓶の価格:110円Aさんの所有価値:2100円 = コーラ19.09瓶
Bさんの所有価値:600円 = コーラ5.45瓶
コーラ換算の所有価値を見ると、【状態A】と比べてBさんは豊かになったが、Aさんは貧しくなった。全員に給付をしたにも関わらず、である。これが「世の中に価値が生み出されていないのにお金だけ発生するのはシンプルに違和感がある」の正体だったのだ。貨幣を発行して投資したところで財が増えないため、財に対して円の価値が薄まった結果、より多く円を持っていた人が給付分を超えて損をしたということである。
ということは、つまり、「新分配」と思っていた貨幣発行によって再分配的な効果が表れている。コロナ世界では「新分配」は「再分配」でもあるのだ。こんなおもしろい結果になるとは*2。
ちなみに、給付金の量を増やすほど再分配の度合いが大きくなる。例えば、給付金を一人あたり200円に増額すると【状態D】のようになり、【状態C】より強く再分配されている。
【状態D】
財の総量:コーラ100瓶
貨幣の総量:12,000円
⇒ コーラ1瓶の価格:120円Aさんの所有価値:2200円 = コーラ18.33瓶
Bさんの所有価値:700円 = コーラ5.83瓶
3. 考察
平常世界では給付金によって世界が豊かになった。一方、コロナ世界では給付金によって全員が豊かにはならないが、「再分配」が行われた。その4で書いていたように僕が「再分配」を推していたのは、コロナ世界では新しい価値が増えにくいので、今ある価値をみんなでうまく分けるしかないと思っていたからである。しかし、そのような世界では「新分配」によっても「再分配」の効果が達成されることがわかった。今の世が平常世界モデルとコロナ世界モデルの間の状態だと思えば、僕の立場ではどっちにしろ「新分配」をしとけばいい、ということになる。反緊縮に翻ることとなった。
このモデルは鎖国した箱庭の話をしていて、外国の存在を考えていない。なにより、そもそも仮定*がアリなのか知らないので、いろいろ雑であることは重々承知である。
4. 感想
なかなか手ごたえのある結果になっておもしろかった。コロナの影響の特殊性というのは経済活動が抑制され、新規の価値が創出されにくく、お金の使い先がなくなることである。このような特殊な状況において、どのようなモデルが成立し、どのような理屈でどのような政策が良しとされるのか、気になっている。
給付金を出しまくってる国もあれば出さない国もあり、ベーシックインカムを導入しようという国もある。各国の様々な動きが今後どのような結果になっていくのか、楽しみである。経済の知識があった方が楽しめそうなので、そこへの興味が増してきた。
渦 その7
どうも、たけです。コロナ禍の中での考え事、今回はなんとリクエストを受けての記事になります。読んでくれている人がいてうれしい。
コロナ カテゴリーの記事一覧 - イタリアンアルティメットダークネス日記
ハン氏から「たけの中でこの3人を戦わせてほしいねんけど、どう?(笑)」「たけの論理性フィルターを通したものを読みたい(笑)」というリクエストをもらってペンを取りました。感染症対策になんの専門性のない工学徒の小学4年生なりにやってみます。
はじめに
このブログ内で要約して説明しながら戦わせるには余白が足りないので、各記事の大まかな感想と、気になったところだけピックアップする。ただし、そもそも記事①と記事②については特に言うことはなく、素直に参考になった。記事③は引っかかりだらけだったので、これに対する文句が本題である。
記事① 8割おじさん
「このままでは8割減できない」 「8割おじさん」こと西浦博教授が、コロナ拡大阻止でこの数字にこだわる理由
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-nishiura
緊急事態宣言も出て、新型コロナウイルスの流行拡大を防ぐため人との接触を8割減らすことが求められている。ところが、緊急事態宣言直前に誰かに資料の数値が書き換えられ、「7〜8割削減」「6割でもいいのか」など、様々な数字が出回っている。8割削減という目標をはじき出した「8割おじさん」こと西浦博さんを取材した。
感想
印象に残ったところを引用します。
おそらく政治家の人たちの中で、この感染症のリスクがそんなに高く認識されていないのだと思います。8割という数字を出した時に、明確に「8割はできるわけない」とおっしゃった政治家がいました。政治家の立場上、国の経済を止めるわけにはいきませんし、接触の削減で割を食う業界を支えないといけないという責任を負っているからだと理解しています。
一方、我々科学者がこういう数字を提示しないといけないのは、自分たちが認識している流行のリスクは、いますぐ止めなくてはいけないという危機的なものだからです。社会活動を制限することで受ける損失をはるかに超えるという思いがあります。
8割が理論的には正しいので、それを目標としてくださいと伝える過程には、簡単ではないせめぎ合いがありました。大臣や緊急事態宣言を担当される部署から、「6割はだめですか?」「それでダメなら7割ではどうですか?」という値切るような聞き方をされました。
科学者として論理的に導き出した数値を明確に確実に訴えつつ、政治家などの別の立場からの主張と調整する戦いについて書かれています。実際に最前線で戦っている人の体験談であり、裏方での戦いや苦労を垣間見れた読み応えのある記事でした。
西浦教授は柔軟性があるというか、理論を示すだけでなく、社会にそれを適用するための政治的な戦いにも着手していてバランスがいいです。経済的打撃を気にして自粛を嫌う人たちもいるのでしょうが、「ここで抑え込んで医療崩壊を防いだ方が長期的に見て経済的にもいい」というような論も通らないとなると、なかなか手ごわい。政府筋から通せない意見については「北大の西浦」として個人的に発信されていて、戦闘力が高いというか本当に戦ってる人だなという好印象です。
一か所だけ引っかかったのは下記の部分。
ただ夜の街で遊んだ上司がいる会社員、というような形で、一般にも広がり始めているのは間違いないです。
夜の街で遊ぶのは「上司」、というちょっとした偏見。例えとしてはわかりやすいですが。僕も「夜の街で遊んだ上司」と聞いて「おじさん」を想像してしまいましたが。
記事② 感染者たたきは自分たちの首を絞める
要約
- 感染者たたきは利益なし
- 第一の理由は感染したこと自体は非難の対象にはなりえないから(ウィルスに善悪の意図はない)
- 第二の理由は感染者をたたく風潮が広がると感染経路を追えなくなる可能性が出てくるから
- 陰性になってもウィルスは残っているので、自分が感染している前提での行動が大事
感想
ダイヤモンド・プリンセス号の内情を告発したことで話題になった岩田教授へのインタビュー記事。そういうのを読んでいたからか、これはなんとなく知っているような話ばかりでした。そうですね、大事ですね、という感じ。「ソーシャルディスタンシングをしっかりしましょう 基礎編」というもので、とくに感想無し。
記事③ なぜ専門家会議は「命」より「経済」を優先したのか?
7日は、安倍総理が夕方までに感染症の専門家などでつくる「諮問委員会」に意見を求めた上で、政府の対策本部で「緊急事態」を宣言。夜7時から官邸で記者会見し、国民に協力を呼びかける。
だが一方で、安倍総理は6日にも述べたように、「宣言を出しても海外のような都市封鎖(ロックダウン)は行わない」という認識を示している。
だが、果たしてこうした政府の対応は正しかったのか。公衆衛生や感染症対策の第一人者で、WHO事務局長上級顧問の渋谷健司氏が再度、緊急寄稿した。
要約
長いし内容があれで要約するのがむずいので、記事内の見出しを列挙する。
(1)すでに感染爆発を起こしている東京
(2)なぜ専門家会議は感染爆発の可能性を報告しなかったのか
(3)それでもやはりロックダウンをすべき
(4)日本でもロックダウンは可能
(5)想定外を想定し、臨機応変に方針転換を
(6)官民で叡智の結集を
感想
4月7日の記事なので、コロナ禍の速度感的にはやや昔の記事。筆者の「WHO事務局長上級顧問・渋谷健司氏」というすごげな肩書と経歴に少しビビりもするが、さすがに雑な内容だったので思ったことを素直に書いていこうと思う。
専門家会議のせい
まずは「(2)なぜ専門家会議は感染爆発の可能性を報告しなかったのか」から引用する。
専門家会議の数理モデル分析担当の西浦博・北海道大学教授は、4月3日の新聞紙上で「現在の東京都は爆発的で指数関数的な増殖期に入った可能性がある」と述べている。専門家会議は4月1日の段階で西浦教授が4月3日に公表したデータは知っていたはずである。
この記事は7日に出ていて、記事①は11日に出ているので順序的に不利ではあるが、当の西浦博教授が記事①で散々データを示してきたことを言っている。
また、別に記事①がなくとも、この記事③内だけで十分に論理の稚拙さが見て取れる。この引用箇所では「専門家会議は4月1日の段階で西浦教授が4月3日に公表したデータは知っていたはずである。」と書いているが、3日に公表されたデータなのだから1日の時点ではまだ出てない可能性は全然ある(もちろん出ていた可能性もある)。推論を断定口調で書いていてよくない。実際ここで言及されている新聞記事は下記のものかもしれない。
「欧米に近い外出制限を」 西浦博教授が感染者試算 :日本経済新聞
実際にこの日経の記事内では下記のように2日の情報を含んでいる。
東京都では2日に97人の感染が確認され、感染者の拡大が広がっている。西浦教授は「東京都も週末にかけて感染者数がさらに増える恐れがある」として、遅くとも来週前半までには自粛要請より強い外出制限を出す必要性を訴えている。
「3日に公表されたので1日にも知っていたはずである」というのはやはり不明確な話である。まぁこれはさほど重要ではないが。
仮に4月1日の時点で知っていたとして、わざわざ新聞にデータを公表して啓蒙に努めているような専門家が、専門家として呼ばれた会議で感染爆発が迫っていることをデータを示して言わない可能性の方が低いと思うが。歴史修正的なノリを感じる。というか、記事中ではその直後に自分で以下のように書いているのだ。
その後、4月5日になって、専門家会議メンバーが「ロックダウンの提案を政策決定者に伝えたが、大恐慌になるので却下された」とツイッターで明かしている。つまり、命と経済との選択において、後者が優先されたと言えよう。
伝えてるやんけ。そしてロックダウンを拒否したのは政策決定者であると書いているが、下記のように筆者の中では全ては専門家の気概が足りないことのせいになっている。
なぜ、専門家会議のメンバーの中に、4月1日の段階で東京がすでに感染爆発に入っていることを示すデータを出そうと主張する人はいなかったのだろうか。なぜ専門家会議に辞表を叩きつけてでも自分の意見を言うメンバーはいなかったのだろうか。もう手遅れでどのような事態が待っているのか知っているのならば、なぜ身を挺して真実を明かさなかったのだろう。専門家としての役割を放棄し政治的判断に身を任せることは、日本では大人の対応と呼ばれるかもしれないが、国際的にはサイエンスに対する裏切りという評価を受ける。
急にどうした。
そう、そもそもこの記事のタイトル「なぜ専門家会議は「命」より「経済」を優先したのか?」にある通り、筆者は経済を優先した責任が専門家会議にあると怒っている。しかし、却下したのは政策決定者だと自分で書いている。また「専門家としての役割を放棄し政治的判断に身を任せることは」とも書いており、これも政治的判断は専門家外で行われていることを肯定している。雑に矛盾している。どういうわけか、専門家の責任にしたい前提で話を進めているように見える。ここまで変なハンドルの切り方では、WHOの立場的に他の専門家に敵対心があるだとか、専門家会議を叩いてほしいというリクエストがあったのかと勘ぐってしまうほどである。
そもそも、「専門家会議」というのをどう捉えているのか、記事内での言葉の使い分けがよくわからない。例えば以下のように書いている。
専門家会議はその位置付けが極めて不明瞭だ。それゆえ、科学的知見と政治的決断が独立していない。専門家の役割は、「サイエンスとして何が分かっており、何が分かっていないのか」「どういう対策をとればどのくらいの効果があるのか」などをきちんと政策決定者と国民に伝えるのが役割だ。政治家はそれをもとに、例えば、ロックダウンするのか、しないのか、という政治判断を下す。
混乱してきた。「専門家会議」「専門家」「政策決定者」「政治家」をどう使い分けているのだろうか。首相官邸の資料を見てみると、専門家会議について以下のように書かれている。
新型コロナウイルス感染症対策本部の下、新型コロナウイルス感染症の対策について医学的な見地から助言等を行うため、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(以下「専門家会議」という。)を開催する。
僕には専門家会議には政策決定者は含まれていないように読める。そうであれば、この筆者が批判すべきは専門家会議ではなく政策決定者である。
ロックダウン
前半ではサイエンスの重要性を訴え、専門家による分析に基づいてロックダウンという強力な政策を打つべきだと力説した。ところが、である。緊急事態宣言というぬるいものではなく「(3)それでもやはりロックダウンをすべき」「(4)日本でもロックダウンは可能」というようにロックダウンの必要性を強く語った後、なんと次のように述べている。
今、我が国のリーダーがすべきことは、危機感の共有と国民が一致団結してこの事態に立ち向かわなければいけないことを明確に示すことではないだろうか。緊急事態宣言、ロックダウン、都市封鎖という言葉遊びではなく、何のためにいま家にいる必要があるのか、ということをシンプルかつ真剣に伝えることだ。「今までとそれほど変わらない」というメッセージは、逆に、人々の危機感を緩めてしまい逆効果にならないか。
緊急事態宣言、ロックダウン、都市封鎖というのは言葉遊びらしい。今までさんざん「緊急事態宣言」ではなく「ロックダウン」じゃないとダメだ、と言ってきたのに、である。これにはずっこけた。
そして、
なぜ英国の人々は行動を大きく変えたのだろうか。それは、3月23日、ボリス・ジョンソン首相のわずか6分のテレビ演説による危機感の共有と国民への断固としたメッセージがその大きな要因のひとつであろう。
4月5日、エリザベス女王は国民への演説をした。女王になってから68年、実に4度目の異例の国民への演説である。女王の凛とした覚悟と今を忍び皆で乗り切ろうという国民へのメッセージは感動的であった。
というように、リーダーのカリスマ性による行動変容を期待している。制度よりも精神面を重視している。ロックダウンの必要性はどうした。
意識高い系てきな
この筆者のノリというのは結局のところややお気楽な意識高い系というか、例えば、
ロックダウンは必ずしも断絶や萎縮ではない。それは、連帯とイノベーションの基盤となるかもしれないのだ。毎週金曜日の夜8時、英国のすべての国民が、ロックダウン中に勤務し続ける医療従事者、スーパーの店員、地下鉄やバスの運転手などへ一斉に拍手をするのは感動的だ。
というようなノリである。
そして最後のまとめは以下のようなものだ。
今、政府の対策本部は混乱の極致であろう。初期の対策開始から刻々と変わる状況の中で疲労もピークにきているはずだ。フェーズが変わりクラスター対策からの転換が必要な今、本部事務局を官民連携にしたらどうだろうか。課題の洗い出しは民間コンサルに任せ、実証はキレキレの学者とエンジニアが行い、優先順位決定はインパクト重視の投資家目線、そして、ロジやオペレーションのプロによる実行案。もちろん、全体と制度とのすり合わせを役所がやる。若手の優秀な日本人は国内、そして、世界にたくさんいる。テレワークメインで24時間365日、世界のどこからでもアクセスして国難を乗り越えるのはどうだろうか。今は未曾有の国家危機、やればできるはず。もちろん、合い言葉は「Crush the Curve」だ。
この人の「専門家に対する信頼」はちぐはぐである。冒頭では「専門家会議は忖度ばかりで専門家はだめだ」というようなことを言って専門家を批判しているが、最後は上記のように「おれが考えた最強の専門家軍団」を発足すべきだと言っている。そして筆者自身が政治に関して素人であるため、この提案自体が専門家を軽視している。問題をかなり単純に捉えているように見える。起業家ワナビー達が最新ガジェットやAIだ5Gだで全部解決!とはしゃいでいるのと同じようなノリを感じる。
- 自分が推している政策にならなかったのは専門家が忖度したから
- 海外はこんなにうまくいっている
- ピンチはイノベーションの源
- リーダーの熱い呼びかけが重要
- 官民連携で日本人の力を合わせれば危機は乗り越えられる
- 優秀な若手
別に間違っちゃいないのかもしれないが、なんというか、典型的なあの感じで、表面的なことしか言っていない。
「3つの記事を戦わせてほしい」というリクエストでしたが、記事③の圧倒的敗北です。以上!