イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

パターンアンホワイト

 誰が読むのか、いや誰に読めるのかは分からないがここに事の顛末を示しておく。言葉の意味が失われたからこそ、最後の抵抗として録音しておきたいのかもしれない。


 事の始まりは、大きく遡れば機械翻訳が着想されたことによる。機械翻訳とは、ある言語で書かれた文章をアルゴリズムによって別の言語に書き換えることである。第1段階の機械翻訳のシステムでは、単語の意味を集めた単語訳データベースと文法の組み合わせによって翻訳を行なっていた。しかし、この方式では翻訳の精度はそれほど高くなく、第1段階の機械翻訳システムはさほど有用ではなかった。研究者が研究のために研究する、ありふれた研究分野の一つに過ぎなかった。


 ディープラーニングの適用により機械翻訳システムは第2段階に突入する。多量の対訳文章のデータとディープラーニングにより文章内の語順から単語と単語の関係を定量的に捉えられるようになり、単語を多次元空間における数値化、すなわちベクトル化する事が可能になった。このベクトルを単語ベクトルと呼ぶ。他言語に翻訳するときは、翻訳元の単語ベクトルを、翻訳先の言語空間での単語ベクトルと比較し、最も一致度が高いものを対訳語として出力する。この手法により、多少違和感があるものの、文章の意味は原文から大きく外れることなく翻訳できるようになった。有用性、将来性が認められ、あらゆる国家が自国言語と他国言語の対訳文章データを積極的に蓄積し、機械翻訳の精度は徐々にだが確かに向上していった。また音声認識機能を搭載した携帯電話と併用することで自動で翻訳することが可能になり、異言語話者との会話が同一言語の共有なしに出来るようになったのだ。

 

 人類は言語による桎梏から解き放たれた。他言語を習得せずに他言語話者と話すことが可能になった。他言語間交流は自動翻訳以前にも可能だったが、実際は可視化されにくい様々な障壁によって阻まれていた。言語の習得は本人の努力だけではなく、所得や、文化資本などの環境にも依存する。この障壁が打破されたのだ。これにより本当に素晴らしい変化が起きた。社会のあらゆる階層の人々が、他言語話者と交流するようになった。交流は刺激であり、刺激はきっかけになる。言語は思想、文化を養うため、異なる言語の間では異なる思想、文化が育つ。異なる言語圏の様々な文化が深い次元で融合した芸術が隆盛した。特に自動翻訳の恩恵を受けたのは、歌詞だった。この時代以降の歌のなんと心地良いことか。あるゆる言語の音の響きの心地よさと語の選択の自由度による自由な韻と多彩な詩的表現。自動翻訳以前以後では歌詞の美しさに大きな隔たりがある。自動翻訳の恩恵はもちろん科学分野にも波及した。発想のより根源的な部分を共有できるようになり研究などの高度な知的活動もさらに活発化した。社会の発展の速度は急速に加速した。

 

 ここで面白い報告が上がった。自動翻訳を介して会話する人の間での犯罪率が、それ以外の人々の間、同一言語間の人の間での犯罪率を下回ったままだったのである。昔から異言語話者間での犯罪率は低かった。これは先ほど述べたように異言語間交流が可能な人々は所得が高い傾向にあり、犯罪を犯す必要がない所謂、「洗練」された人々だった。しかし自動翻訳以後では所得にほぼ関係なく異言語間交流が行われた。普通に考えれば異言語間、同言語間での犯罪率は均等になるはずだった。しかし、現実は違った。異言語話者間の犯罪率は低い状態を維持したのである。

 

 この現象を説明するために有力な説が上がった。自動翻訳を用いる事で「誤解」がなくなるという説だ。人々の言葉の使用法はその人が今まで接した来た言葉に大きく依存するため、同じ単語でもその指し示す意味は微妙に異なる。この微妙な差異のために、似た意見を持つ人の間でも不必要な対立が起こる事が多々あった。そして不幸な場合、その対立が原因で犯罪が起こった。

 

 この説を検証するために同言語間話者の間でも自動翻訳を用いるようにした。これにより、データベースに収録されている言語の使用法に統一されるため、同一言語話者間の語彙の微妙な差異が強制的に修正されるようになった。同一言語話者の間でも異言語話者の間程度の犯罪率に低下した。説は正しかった。この説が立証された後、全ての人々は自動翻訳を介して会話をするようになった。法律で定めなくとも人々は自ら自動翻訳を使った。大抵の人間は争いを好まない。自動翻訳を使用しない人々は闘争的、犯罪者予備軍との誹りを受け、話しかけてもらえなくなった。彼らは自動翻訳を渋々使うか、孤独に殺された。

 

 自動翻訳機を介在させることで意味を強制的に擦り合わせることが可能になったが、この方法では新しい単語や新しい単語の使用法が生まれないことになる。これは言語の可能性を切り捨てることになるため対策方法が模索された。以下のような手法が提案され、採択された。まず、デバイス使用者の単語の使用法を全て記録、解析し、使用者の言語空間内でベクトル化する。つまり、それぞれの人が、それぞれの人専用の言語を持つと捉えることにしたのである。単語の音の配列がデータベースにない場合はこの単語を新単語して言語ベクトル化し登録する。既に存在する単語が解析、およびデータベースとの比較の結果、新しい使用法として使用されていた場合、その使用法を学習する。データの入力は音声認識システムを用いて行われたので、単語というより空気振動の波形という方がより正確な表現になる。


 こうして全ての個人が他人とより深いレベルで交流する事が可能になった。社会はその発展の速度をより加速した。そしてその後、百数十年経ち、唐突に社会は崩壊した。誰しもが会話不可能になった。個人の使用履歴に根差した単語(空気振動の波形)の使用法を記録し、データベースとして用いたせいで単語の示しうる範囲が少しずつ広がっていった。単語の示しうる範囲の拡大速度は、現在その単語が示しうる単語の範囲に比例していた。つまり指数的に広がっていった。そして一つの単語は発散し、もはや森羅万象を表しうる状況になってしまった。人々は自動翻訳の使用をやめたがもう遅かった。どの声帯が発する音も単なる呻き声でしかなかった。機械による音声の認識に頼ったせいで、誰も同じ音を発せなくなっていた。文字の使用はだいぶ前に不可能になってしまっていた。表音文字は各個人が用いる音が完全に異なってしまっていたため機能せず、表意文字は多義化する言葉や新しく生まれる概念に追いつけなかった。そして何より人は誤解を恐れ、音声と自動翻訳による意思疎通に一本化、特化しており、文字を捨てていた。この時の人類は意思疎通が出来ないという恐怖に耐える事が出来なかった。初めて遭遇する状況だったからだ。不運な事故が悪意と解釈され、誤解と不安は蔓延し、あらゆる個人の間で殺し合いが起こった。音を一から擦り合わせる忍耐を持つ人間などそうはおらず、他人を見かけた場合は殺すか、逃げるかの二択が最適行動になってしまった。こうなっては人間の集合体である社会など構築のしようがない。人類社会は崩壊した。


 以上が事の顛末である。私は一人でここに私専用の言葉で、私ではない誰かに向けてこの音声を録音している。実在の人間とは誰も意思疎通が出来ない状況で、孤独を紛らわせる唯一の方法がこれなのだ。誰かにはこの言葉が通じると信じたいのである。私の言葉が誰かにはノイズではないことを信じたいのである。

 

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com