イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

「講義で苦痛受けた」として受講生が京都造形大学運営法人を提訴した件について考えたこと

 どうも、たけです。「講義で苦痛受けた」として受講生が京都造形大を運営する法人「瓜生山学園」を提訴したという下記のニュースに関して考えたことを書きます。

 

www.bengo4.com

www.huffingtonpost.jp

 

[:contents]

 

はじめに

 本件をざっくり説明すると、京都造形大学の東京にあるキャンパスで行われた「ヌード」をテーマにした公開社会人講座を受講した社会人の方が、講義内容の性的な過激さによって精神的苦痛を受けたことで、「セクハラを受けた」として大学を相手に慰謝料を求めて提訴したというものです。

この件を考える上で、大きく次の3つのポイントがあると考えています。

  1. 講義内容を芸術教育として認めるか
  2. 講義を欠席することに対して補償する必要があるか
  3. 前後のケアが十分であったか

それぞれ順に考えていきます(芸術や法律やハラスメントに詳しくないのでそういう知識に基づいたものではありません)。

ポイント1. 講義内容を芸術教育として認めるか

 本件に関して、きっかけとなった講義を行った現代芸術家の会田誠氏は次のように述べています。

 僕には芸術のことはよくわかりませんが、少なくとも会田誠氏の見解としては”『人類にとって芸術とは何か」という僕の人生を賭けたシリアスな問いの一環”とのことです。僕は納得しています。こういった主張に対し、京都造形大学側、あるいは野次馬がどのような見解を表明するか次第では、それは会田誠氏の作家性、あるいは芸術そのものを否定する表明になり得ます。会田誠氏が持つそういったテーマ、そしてそれを芸術について語る場で人に提示することを、否定するのか肯定するのかが第一のポイントです。これを否定するようであれば、不適切な講義をしてしまいました、で終わりです。ですので、以降はこのポイント1において講義内容を芸術教育の範疇であると認めた場合の話になります。

ポイント2. 講義を欠席することに対して補償する必要があるか

 今回の場合、社会人向け公開講座ということで単位や卒業どうこうという話ではないでしょうから、補償も何もないと思います。次に書くことは今回の件とは直接関係のない思考実験的なもので、「これが大学の平常講義で行われていた場合」を想定したときの話です。

 平常講義で同様の内容が扱われた場合について考えてみます。十分事前にその講義内容がアナウンスされており、それを聞いて受講を拒否したいと思ったとしても、仮にその講義を欠席することで成績が悪化し、それが本人にとって重大な問題となる場合、その講義に出席することに対して強制力が生じることになります。そうすると「アカハラ」てきな要素が出てくる可能性があります。もちろんその講義を受けることが学位取得のために正当に必須であるならそれは仕方ないことだと思います。もし、大学側がその講義に対し「芸術教育であるが、必須とは言わないし、受けたくない生徒の気持ちも尊重したい」という態度である場合には、他の講義や課題によってその講義を欠席した分を補える仕組みを用意するのが親切です。親切だとして、そのような仕組みを用意する「責任」があるかどうかがポイントになる思います。

ポイント3. 前後のケアが十分であったか

 違う例で考えてみましょう。例えば、医学部の学生が人体解剖実習の講義を受けて大きな精神的苦痛を受け、そのことに対し大学に慰謝料を求める訴訟を起こした場合を仮定して考えてみます。この場合、解剖実習を行ったこと自体を批判する人は少ないと思います。これはポイント1に関してそれが妥当な教育であると認めるということです。ポイント2については実際にはどうなっているかは知りませんが、ここではより親切である「欠席しても補償がある」としておいても別にいいです。さて、このような場合、解剖実習を受けたことで苦痛を受けたということを「自己責任」で済ましていいのでしょうか? 解剖実習によってどの程度苦痛を受けるかを、実際に受講したことのない生徒が事前に予見することは難しいため、これに対し「嫌なら受けなければよかったじゃない」とするのは酷だと思います。ですので、このような場合には、大学側が内容を考慮して講義の前後に十分なケアを行う責任があるかがポイントになります。責任があるとする場合には、それが一般的に十分と言えるレベルで行われていたかが論点です。

 今回の京都造形大学の件でも同じことが言えると思います。まず、前後のケアを行う責任が大学にあるかどうかが最初のポイントです。次に、責任があるとした場合、事前のケアとしては講義内容に関して十分にアナウンスできていたかがポイントになります。解剖実習であれば事前に講義内容は承知しているでしょうが、今回の件では講義内容の過激さを知らずに受けてしまったというのがそもそもの発端のように思います。また、仮に講義内容を知っていたとしても、受けるかどうかを事前に適切に判断できるとは限らないため、「実際に受けてみたら苦痛だった」ということもあるでしょう。「嫌なら立ち去ればいいじゃない」という意見もあるかもしれませんが、立ち去ったところでもう既に苦痛を受けてしまっているので手遅れです。そこで事後のケアの必要性が議論の対象になります。実際に苦痛を受けたという人が現れた場合、あるいは現れる以前からでも、大学に事後のケアを行う責任があるのか、責任があるとした場合にはそのケアが十分に行われていたかが論点になると思います。

何を問題としているか

 余談といえば余談です。上記の弁護士ドットコムの記事には、

大学側は同年7月、環境型セクハラについて、対策が不十分だったと認める内容の調査報告書をまとめたという。ところが、そのあとの話し合いで、示談にあたって、お互い関わり合いを持つことをやめる、という項目をの要望があり、交渉が決裂。

とあります(誤字そのまま)。また、上記ハフィントンポストの記事には以下のようにあります。

学校側は事実を認める一方で、示談の条件として校舎の立ち入りや学校関係者との接触を禁じるなどの対応をし、「外部に出したら名誉毀損として法的措置を検討する」などと大原さん側に伝えたという。

 このように、示談の条件に不満があったために提訴に発展したということです。示談というのはそういう条件がつくものでしょうが、それにしても条件が過剰だということでしょうか。その部分への怒りが大きいのだとすれば、提訴の相手通りに対大学の話であり、作家を巻き込む必要はあまりないように思います。(正直、「ヌード」をテーマにした芸術の講義で、しかも講師が会田誠であると事前にわかっていて、その会田誠の「作品」を見てそれほど不快になってしまうタイプの人に対してもう関わって欲しくないと思う気持ちは察します...。)

まとめ

 ポイント1については今回は特に争われていないように思いますが、この点への意見によっては会田誠氏の作品や、芸術そのものに対する発言者の見解が垣間見えそうです。ポイント2については強制力うんぬんなのでハラスメント的な話ですが、本件は「社会人向け公開講座」ということなので強制力は弱い、あるいはないと思います。ポイント3についてはケアの責任の有無と、責任がある場合にはそれが十分だったかどうかという話です。ポイント1が興味深く、ポイント3が重要だと思うので、本件がハラスメント案件と言えるかどうかはわりと疑問です。

 解剖実習の例を出しましたが、他にもひねった例で考えることができそうです。

  • 平和についての講義を受けに来たら、ナチスによるユダヤ人虐殺のエピソードを話され、強制収容所の死体の山の写真を見せられて苦痛だった
  • アダムとイブが人間の祖であるのに、人類の祖先が猿だという侮辱を受けた
  • エンタメ映画を見に行った際に過激なベッドシーンを見せつけられて精神的苦痛を受けた
  • バッドエンドになるとは思っていなかった。それなら先に悲しい映画だと言っておいてほしい

というような場合を考えてみてもおもしろいかもしれません。嫌なものが嫌なのは仕方ないことなので、もう未知の刺激から守られた安全な世界で穏やかで平穏な日々を過ごそうじゃありませんか。

 

 

蛇足

 ハラスメント案件と言えるかは疑問だと言っておきながらこんなことを言うのは不適切かもしれませんが、「幽遊白書」での下記のセリフを思い出しました。

「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女のコに無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感さ

 それでは。