イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

「理解」を書いて/読んで

 ざわポエム「理解」のあとがきと感想です。

 

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あとがき

 ざわです。たけとむるは徹底性が高く、考えるのが好きだから、疑問を持つと何かしらの答えを出さずにはいられない性質です。そんな彼ら(主にむる)が、僕の過去の発言や振る舞いから僕の理解を試みました。僕は結局理解なんて、その人がこれまでに培って来た枠組みに当てはまることに過ぎないと思っています。だから、そんな彼らが僕を理解しようとした時に、僕の人格が無理やり彼らの枠組みに押し込められたと感じました。特に、僕はたけやむると違って、一貫性や言語化(理屈化)を重んじていないために、より強く無理やり押し込められたと感じたんです。その時の怒りと悲しみともやもやをこのポエムでは表現してます。たけやむるによる「お前は猫」という意見によって、また、自分の「俺は猫ではない」という意見への猜疑心のせいで、「俺は猫か」という検証が始まります。検証が終わった頃には議題が別に移っているため反論が出来ず、もやもやだけが残ります。これはどちらが悪いとかではなく、議論に対する心理的負担の軽重、発言の正確性などの差によって生まれてしまうものです。

 そういえば、理解が枠組みに当てはまることなら、理解するための枠組みはどうやって手に入れていけばいいんでしょうね。少なくとも僕は枠組みを手に入れる行為を「理解」とは、呼べなくなってしまいました。

 

小学四年生の感想

たけ

 ふいにこれを見せられてびっくりしました。そんでちょっと反省しました。ここ数年自分の攻撃性について反省することが多いです。攻撃してやろうという気持ちはないつもりだし、悪意もないつもりなのですが、自分の考え方やこだわりの強さ、自信の持ち方なんかが他人にとってはきついことがあることに気づいてきました。ざわのこの詩は「他人を型にはめて理解した気になる」ということの残酷さを描いています。最後の「私は仕方なく潰れてしまった声帯で、血を吐きながら「にゃーん」と泣くことにした。」というところがとても良いです。「間違ってたら指摘してくれたら良いのに」という考えがいかに傲慢なものか思い知らされます。

 一方で、「型にはめて理解する」ということが悪いことだけだとも思えません。もちろん正しい型にはめれていたら、という前提ですが。例え話によって難解な話がわかりやすくなるように、あるいは類似性を見出すことで類似物側での経験を活かしやすくなるように、型で考えることのメリットはたくさんあります。そういう考え方でしか得られないものもあるでしょう。しかしやはり「型にはめてしか理解できない」というのは不器用で良くありません。型にはめたからと言って、型にはめたために無視した部分が消えて無くなるわけではないので、「型にはめて捉えることもできれば、そうはせずに捉えることもできる」というのが多様な解釈を同時にできるのが器用なやり方だと思っています。僕はいいとこ取りが好きなので、そういうスタンスでいたいです。突き詰めれば「型にはめていない理解などなどない」とも思うので、常にそこに警戒をしつつ、道具は人を傷つけないよう正しく使うべきことを肝に命じておかねば。