イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その1 - マタイによる福音書 1-4章

 どうも、たけです。かっこいいと思って聖書を読み始めました。最初の二週間はイエスのキリストっぷりを記した新約聖書の「マタイによる福音書」を読みます。今回の記事では1-4章を取り上げます。

 

 企画の概要はこちらから。

shogakuyonensei.hatenadiary.com

 

 

聖書の背景

  まず鈴木崇臣『1年で聖書を読破する 永遠のベストセラー《完読法》』(Forest Books)の解説を読みました。最初ですので基本事項の確認から始まります。この記事でもしっかり確認していきます。

新約聖書旧約聖書

 旧約聖書イエス・キリスト以前のことが書かれていて、新約聖書イエス・キリスト以後のことが書かれています。

キリスト教ユダヤ教

 キリスト教というのは、

 旧約聖書に書いてある神がイエスという人になって、この世に使わされてきたことを信じる宗教です。

鈴木崇臣『1年で聖書を読破する 永遠のベストセラー《完読法》』(Forest Books)P.9

とのこと。それに対して、ユダヤ教というのは、

「神が人になって現れるはずがない。もしそうならイエスという『人』を拝む偶像振興になってしまう。それは絶対にありえない」というのがユダヤ教です。

鈴木崇臣『1年で聖書を読破する 永遠のベストセラー《完読法》』(Forest Books)P.9

とのこと。ですので、ユダヤ教旧約聖書だけを経典とし、旧約聖書の神は信じるがイエスは信じないという立場です。キリスト教旧約聖書新約聖書が経典となっていて、ユダヤ教と同じ神を信じていることになります。「ユダヤ教エス派」がキリスト教です。

イエス・キリスト

 「イエス」が名前で、「キリスト」というのは称号的なものです。「神でありながら人になって遣わされた神の子」てきな意味だそうで、「メシア」とかそういうあれです。「人の子」というのもそういう意味です。

 イエスは大工の息子として普通に暮らしていたそうです。ところが、無学のはずのイエスが30歳くらいのときに突如として人間業ではない奇跡を行い、普通では(人間では)とても考えつかないような説教をし始めました。神がかってますね。

 また、イエスという名前はありふれたものだったので、どのイエスかを明確にするときには出身地を含めて「ナザレのイエス」とも言うようです。これはキリストとしてのイエスというよりは「史的イエス」というニュアンスになるっぽいです。

 

マタイによる福音書の概要

 イエス十二使徒の一人であるマタイによって書かれたものとされています。イエスがキリストであることを広めたかったとか。全28章あります。僕が「新約聖書にはこういうことが書かれている」と思っていた話の9割が出てきたのではないかという内容で、イエスのいろんな説教と死と復活が描かれています。wikiによると5つのパートに分けられるそうです。

 また、「マタイによる福音書」の目的はwiki曰く、

エスこそが「モーセ預言者たちによって」予言され、約束されたイスラエルの救い主(キリスト)であると示すことにあり、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していることを示すこと

です。そのため、旧約聖書を引用して「ほら、預言通り」みたいな記述が多いです。そこらへんはまだよくわからないのでさらっと読みました。

 それでは、最初から順に気になったところを挙げてコメントしていきます。

 

イエス・キリスト系図・誕生

 1章ではイエス系図がつらつらと書かれています。これはイエスが確実に「人間」として生まれていること、そしてわりと由緒正しい家系であることが説明されています。キリストがダビデの子孫に現れるという予言が成就されていることを示しているそうです。

 また、マリアが「聖霊によって身ごもっている(1:18)」ことが説明されています。そのとき婚約していて後に夫になったヨセフは夢に出てきた天使によってそのことを告げられます。

 

洗礼者ヨハネ

 ヨハネはイエスに洗礼を授けた人です。使徒ヨハネとは別人です。

 人々に「悔い改めよ、悔い改めよ」と説いて洗礼(バプステマ)を授けていた、日本で言えば、みすぼらしい僧服をまといながらも、人々から尊敬されていたユダヤ教の高僧のような人と思ってください。

鈴木崇臣『1年で聖書を読破する 永遠のベストセラー《完読法》』(Forest Books)P.12

だそうです。

そのとき、イエスが、ガラリヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にはふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(3:13-15 )

 達人同士の会話という感じがしていいですね。イエスはわりとヨハネのことをリスペクトしているっぽいです。ヨハネは少女の気まぐれみたいなもので首をはねられるという理不尽に思える死を遂げます。

 

悪魔との問答

 4章では、前置きでも言及した悪魔の誘惑と、それに対するイエスの返答が書かれます。要注目なのでフルで引用します。

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に使えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(4:1-11)

 この部分は、前置きでも述べたように、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で絶賛されています。これも改めて引用します。

もしこの地上でかつて真の衝撃的な奇跡が成就されたことがあるとすれば、それはあの日、つまりあの三つの試みが行われた日にほかならない。あの三つの問いの出現にこそ、まさしく奇跡が存しているからだ。一例として試しに今、もしあの恐ろしい悪魔の三つの問いが福音書から消え失せてしまい、それを復元して福音書にふたたび記入するために、新たな問いを考えだして作る場合を想定しうるとしたら、(中略)一堂に会した地球の全叡智は、はたしてあのとき力強い聡明な悪魔が荒野で実際にお前に呈した三つの質問に、深みや力から言って匹敵できるようなものを何かしら考えだせるとでも、お前は思うのか? これらの質問を見ただけで、またそれらの出現した奇跡を見ただけで、お前の相手にしているのが人間の現在的な知恵ではなく、絶対的な永遠の知恵であることが理解できるはずだ。なぜなら、この三つの問いには、人間の未来の歴史全体が一つに要約され、予言されているのだし、この地上における人間の本性の、解決しえない歴史的な矛盾がすべて集中しそうな三つの形態があらわれているからだ。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟 上』原卓也訳(新潮文庫)P.634

 さて、これを読んでなければあまりピンとこなかったであろう質問と回答。ドストエフスキー(あるいは大審問官(あるいはイワン))の解釈は次の通りです。

 第一の質問でイエスがパンを石に変えなかったのは、民衆から「自由」を奪わないためである。民衆がパンを与えてくれる人に服従してしまえば自由でなくなってしまうと。パンを「衣食住」「生活」みたいなものと捉えればいいのでしょうか。それらを「与えてくれる人」に「従順になる(支配される)こと」を良しとしない考えです。“神の口から出る言葉一つ一つで生きる” というように、霊的な生活を成すべきであり、動物的な生活に依存して信仰を失ってはならないということでしょうか。

 第二の質問に関しては、奇跡に対する誘惑に動じなかったイエスに対し、下記のように述べています。

しかし、人間は奇跡をしりぞけるやいなや、ただちに神をもしりぞけてしまうことを、お前は知らなかった。なぜなら、人間は神よりむしろ奇跡を求めているからなのだ。そして人間は奇跡なしにいつづけることなぞできないため、今度はもう新しい、自分自身の奇跡を作り出して、祈祷師の奇跡や、まじない女の妖術にひれ伏すようになる。

(中略)

人々がお前をからかい、愚弄して、《十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる》と叫んだとき、お前は十字架から下りなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇跡によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望していたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟 上』原卓也訳(新潮文庫) P.644

”人間は神よりむしろ奇跡を求めている” というのはしびれます。聖書が実話やどうかや、歴史的遺物にこだわるのはそういうことなのかもしれませんね。キリストが実在してようがしまいが、その教えがそこにあることだけで十分でしょうに。ここでの「奇跡」は「文明」「科学」に置き換えることができるかもしれません。それらに依存して自由を失ってはならないわけです。イエスは信仰のある人の前では奇跡を行いますが、信仰のない人の前では行いません。奇跡を信仰することを良しとしないのです。

 第三の質問に関しても、同じように「自由」がキーワードとなっています。第三の質問は権力に対するものでしょうか。権力によって獲得された信仰を良しとしていません。『カラマーゾフの兄弟』のこの一連の部分では「イエスが望む自由は民衆にとって荷が重すぎる」「そういう信仰ができない弱き民衆を見捨てるのか」というようなことが言われています。

 後にイエスは五千人とか四千人にパンを分け与えますし、奇跡もほいほい行います。これはこの悪魔の誘惑を受けてもそれらを行わなかったことと一見矛盾するようにも思います。しかし実際にそれらを行ったときは決して「誘惑にかられたから」ではない点で大きく異なります。それらを行うこと自体を否定しているわけではなく、悪用・依存するべからず、そしてそれらによる信仰はよくない、ということでしょうか。

 仏教的なイメージなのかもしれませんが、「断食」には修業的なイメージがあります。なので ”そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。” とあるようにキリストたるイエスが修業している感じはまだピンときません。誘惑を受けるにあたって弱くなりそうな感じにしたのでしょうか。”悪魔から誘惑を受けるため” 荒野に行ってるので、誘惑を欲しがってますね。

 

続く

 濃密なために取り上げたい部分が多すぎて、この調子だとブログが毎回聖書の話になるのでは?と心配になります。問題ないっちゃないんですが。通読の導入として大トロの部分から読み始めているので、この調子は今だけのはずだと思っています。この後、イエスは伝道を始めます。奇跡を行ったり説教をしたりしつつ、弟子も増えていきます。

  読んでいてどうしても気になったこと。「パンを石に変える奇跡」を砂利に使った場合、小さいパンがたくさんできるのかパン粉ができるのかどっちなんですかね。