イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その2 - マタイによる福音書 5-7章

 どうも、たけです。聖書通読企画、今回はマタイによる福音書の続き、5-7章を取り上げます。

  

 

山上での説教

 イエスはガラリヤ(地名)で伝道を始めます。それまでも王からの刺客から逃れたりいろいろあったのですが、ここでも洗礼者ヨハネが捕まったと聞いて、そういう難から逃れるためにガラリヤから離れて旅をしつつ、病気を治したり説教をしたりしていきます。弟子も増えいき、キリストの一味が形成されていきます。実際読んでみて、イエスの説教はしびれるものばかりでした。

  5-7章では、イエスが山に登って弟子たちに教えたことが書かれています。最初にイエスかました場面です。いくつか紹介します。

 

誓ってはならない

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは王都の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本ですら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(5:33-37)

 海外の映画や小説にある「神に誓えるか?」「もちろんさ、何にだって誓えるとも」「じゃあ信じるよ」みたいなノリに対して「誓いの威力すげぇな」と思います。裁判において証言者は宣誓してから証言するが、被告人や被告人親族は宣誓が免除されている、みたいなことが書かれていたりします。やっぱ宗教あったほうが便利そうですね。

 さて、この節ではどういうことが言われているのでしょうか。まず他人(神)の持ち物にかけて誓うのは、自身の行為に対する権威づけのためにその威信を借りているように思えます。神の威を借る子羊たちです。何のためにそんな権威で装飾するのか。誓おうが誓うまいが、それが真実であるか嘘であるか自分は知っているはずであり、そこには本来 ”『然り、然り』『否、否』” しかないわけです。他は不純物なのですね。

復讐してはならない

「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求めるものには与えなさい。あなたから借りようとするものに、背を向けてはならない」(5:38-42)

 有名なやつがきました。こうして読むと、背景として「目には目を、歯には歯を」な世だったことがあるんですね。そういった復讐の連鎖を止めるためのものなのかもしれません。”だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。” という有名なやつ、昔は「なんで向けなあかんねん」と思っていましたが、最近はなんとなくわかります。僕は相対主義的な見方によって「結局は勢力争いに過ぎない」「どちらかが悪いとかじゃない」というような思想を持っています。「じゃあやられる方はやられ続けなきゃいけないのか!」みたいな指摘に対しては「別にそんなことは言ってへんやろ」という感じで、「好きに勢力争いすればいいけど、それは対等な立場同士の勢力争いに過ぎず、正義と悪の戦いではないことを自覚せよ」みたいな気持ちです。そうした価値観を前提として、それでも他人と調和したい際にはどうしたらいいかというと、「余裕のある方が対応すべし」と思っています。ですので、僕は ”求めるものには与えなさい。あなたから借りようとするものに、背を向けてはならない” というしびれる言葉は「余裕をもて」「寛大であれ」ということだと受け取りました。それが善悪だと錯覚するのは奢りですよ。左の頬をも差し出すくらいの余裕があった方がいいでしょう。

 ちなみに「ミリオン」は長さの単位で、約1480メートルだそうです。

敵を愛しなさい

敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているのではないか。だから、あたながたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。(5:44-48)

 しびれるぜ...。 "自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。" とあるように、当たり前のことをしてドヤってる人への警告に感じました。愛はもっと寛大なものなのだ...。全人類を愛していきたいものです。

 「異邦人」というのは非ユダヤ人のことです。ここではユダヤ教を信仰していない人と思えばいいのでしょうか。

天に富を積みなさい

施しをするときには

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようとか街道や街頭でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはいけない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らはすでに報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(6:1-4)

 ”施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない” 、なんてすばらしい表現だろう...。このあとには「施し」を「祈り」「断食」にそれぞれ変えたバージョンが続きます。そのあとの話で納得がいきます。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さびついたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のある所に、あなたの心もあるのだ。

 天才...。この「富」というのはいわゆる「徳」ですかね。「徳」というものと、それを積むことの意義をこんなにちゃんと説明されたのは初めてです。これ見よがしに徳ありげな行動をするのは、地上に徳を積んでるわけです。そしてそれを見せびらかすことですでに対価を得ている。ポージングの無意味さ。不純物の排除。曇りの除去。

  これを読んだ後に、燃え盛るノートルダム寺院を見ながら賛美歌を歌う人たちを見て少しモヤモヤしましたが、あれはまぁ仕方ないやつなんですかね。僕だったらカメラ意識して「今おれら激アツなことしてるな...」と思ってしまいそうです。信仰の薄い者め。

人を裁くな

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分を裁く裁きで裁かれ、自分を量る秤で量り与えられる。あなたは。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(7:1-6)

 イチローが引退の記者会見で次のことを言っていました。

先ほどもお話ししましたけれど、人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。あくまでも、秤(はかり)は自分の中にある。それで、自分なりにその秤をつかいながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていく…ということを繰り返していく。そうすると、いつの日か「こんな自分になっているんだ」っていう状態になって。だから、少しずつの積み重ねでしか、自分を超えていけないというふうに思うんですよね。

 自分の秤で自分を量るところが似ています。他人を気にする方が楽ですが、自分を見つめて裁いて量ること、まずはそれですよね。自己をえぐってけ!

求めなさい

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。(7:7-10)

 果報は寝て待つな、ということですかね。

実によって木を知る

偽予言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い木を結ぶこともできない。(7:15-18)

 たとえがうますぎる...。これは「施しをするときには」の話とも同じことのように思います。フェイクじゃなくリアルで勝負しろって話ですわ。

 

群衆の反応

 このような説法を聞いた群衆の反応はこうです。

エスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからである。(7:28-29)

 律法学者というのは旧約聖書の教えを研究して説く人のことです。イエスはこの後病気をいやしたり奇跡を行うことでも民衆をひきつけますが、まず最初は教えによって群衆を驚かせたというのはかっこいいですね。

 

続く

 マタイによる福音書、まだまだ続きます。