イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その3 - マタイによる福音書 8-15章

 どうも、たけです。マタイによる福音書の3回目、今回は8-15章を取り上げます。

  

 

奇跡を行う

病気の人を治しまくる

  イエスは信仰が厚い人から求められてるたびに病気の人や悪魔に憑かれた人々を治しまくります。それはもうあっさりとフランクに治しまくります。また、失明した人の視力を復活させるレベルのことをしたときは口外しないように命じるのですが、

「このことは、だれにも知れせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地域一帯にイエスのことを言い広めた。

というように結局広まります。

嵐を鎮める

エスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかりなぎになった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。(8:23-27)

 湖の嵐ってどんな感じなんですかね。ここで弟子が「主よ」と言っているこの「主よ」はヤハウェてきな主なんですかね?この時点でもうキリストとしてイエスを見ているということでしょうか。怖がることに対して「信仰の薄い者たちよ」というのはしびれますね。キリストの乗る船が沈むわけないでしょう。それでも一応嵐を鎮めるのは何故なのか少し気になりはしますが。

罪人を招くためである

エスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やってきて、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」といった。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(9:10-13)

 イエス旧約聖書の解釈力の高さを見せる場面は多いです。また、罪人と並べられる徴税人の嫌われ方が気になります。調べてみると、当時ローマ帝国に支配されていたイスラエルではローマ帝国に収める税金の徴収作業をその土地の者に委託していました。ですので、徴税人というのは地元民でありながら憎きローマの手先として税金を徴収してくる裏切り者てきな存在だったようです。まさしくマタイももともと徴税人で、この節で弟子になっています。

十二使徒結成

エスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気をいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て、深く憐れまれた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:35-38)

 群衆を救うことを「収穫」って言ってんすね。救われるべき民衆はたくさんいるが、救える人が少ないということ。そして十二人の弟子を選び、力を授けます。

エスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(10:1)

これが十二使徒です。旧約聖書モーセが神に奇跡を行う力を授かっていたのと似てる気がします。この十二使徒を派遣して教えを広めます。その際、

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。(10:8-9)

と忠告します。

平和でなく剣を

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのた。わたしは敵対させるためにきたからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族のものが敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである。」(10:34-39)

 そんな...。イエス中心的すぎると捉えるとあれですが、キリスト中心的と思えば、まぁ、そういうもんなのか...?信仰とはそういうものである、という話なのでしょうか。「平和でなく剣を」というのは、かましてますね。10章では信仰の在り方について書かれているように思います。それらが十二使徒に語られています。

天の国のレベル

 再度、洗礼者ヨハネが登場します。イエスが彼について語ります。

そうだ。言っておく。預言者以上の人である。『見よ、わたしはあなたより先に支社を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれたもののうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった。(11:9-11)

 ヨハネ旧約聖書で予言された人物であることを示し、絶賛しています。そのうえでこう続きます。

しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である。

 天の国、レベル高!!

 ハンターハンターで言うところの、天空闘技場の200階に念を使えるかどうかの壁がある感じですかね。

  ところで、「女から生まれたもの」にイエスは含まれているものなのでしょうか。気になります。

 ここで少し、天の国について。天の国の到来が予言され、そこの住人となるべく徳を積んでいる感じはわかるのですが、天の国がなんたるかはまだよくわかっていません。そのうち掴めることでしょう。

 

たとえを用いて話す理由

 いろんな教えが書かれていて、どれもいいのですが、紹介しているとキリがないので控えます。こうした説教において、イエスはたとえ話を巧妙に使います。うますぎるたとえだらけです。そうしてイエスがたとえを使って話す理由を弟子に質問され、こう答えます。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの予言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』(13:11-15)

 わかる人だけわかればいい、ってやつですかね。たとえを理解できる姿勢の人が悟るべきものであるため、直接的な表現を使っていないということです。フェイクニュースてきな問題にしろ、「みんな見たいものしか見ていない」というのがあります。見たい人にだけ見える周波数で発信してるわけです。

  このようにイエスはたとえを駆使するのですが、そのたとえで言ったことの意味を汲めなかった弟子に聞かれて改めて噛み砕いて説明したりしています。弟子、渾身のたとえを説明させるのは無粋やぞ。悟りなさいよ。

地元民に敬われない

 故郷に帰ったイエスは、古郷でも教えを行いましたが、あまり跳ねませんでした。

会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちはみな、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、予言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」といい、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(13:54-58)

 ルーツを知ってしまっているが故に、イエスを人間視している、ということでしょうか。「つまずく」というのは信仰の道につまずく、てきなことで、信仰が薄れることを意味します。

パンを分け与える

 自分を追ってきた大勢の群衆を憐れんでパンを分け与えます。なんと5つのパンを裂いて配ってるうちに五千人全員に配り、満腹にします。悪魔の誘惑の際に言われた「石をパンに変える」ではなく、「裂いて配る」ということに何か意味を見出したいです。あくまで「分け与えた」という感じと、それで「満腹させた」という感じ。愛がありそうです。

  パンのエピソード、14章では五千人に食べ物を与えましたが、次の15章でも四千人に同じように食べ物を与えています。ただ先に五千人に分けた後の四千人だと人数が減ってるのでインパクトに欠けるな、と。ここの演出の無さに対して、ある意味で聖書のリアリティを強く感じました。五千人の後は一万人くらいいってほしい。

 

続く

 さあ、これでようやく「マタイによる福音書」の半分進みました。このペースだと聖書の話だけで隔日更新になってしまうので、もう少しさらっとやりたいところです。読んでみてわかったのですが、全部重要に見えるので引用せずにはいられない。