イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その5 - マタイによる福音書 20章

 どうも、たけです。マタイによる福音書の5回目、今回は20章について。持論が盛り上がったので一章だけです。

  

 

「ぶどう園の労働者」のたとえ

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。(20:1-5)

夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後のものにも、同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(20:8-16)

  かなりおもしろい話だと思います。今企業がこんな事したら叩かれるでしょうけど。神はにわかにも寛大です。イエスと出会うのが早かった人と、遅かった人との差というのは運のようなもので、それが古参有利なシステムと言われたら理不尽なように思えます。そんなところで信仰の価値は変わらないというのは安心ですね。前回の記事で「からし種一粒ほどの信仰」という言葉がありましたが、やはり信仰は量ではないのだと思います。

 しかしながら、あえて「先にいる者が後となる」というのはどういうことなのでしょうか。それはそれで理不尽に思います。「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」てきなね。でも何らかの順番を決める必要があるとして、「どういう順番にするのが最もキリスト教的か」を考えるとそれはやはり「後にいる者が先となり、先にいる者が後となる」でしょう。古参だったらその分より寛大であれ。

 ここで「人前で祈ってはならない」という話を少し思い出しました(→その3)。これは「人前で祈る姿を見せたがる人は、そのことによって既に報われているので、本当に大切な報いは来ない」てきな話です。ここでは「既に報われている」は悪い例として挙げられていますが、信仰における古参が長い信仰生活そのものによって既にそれなりに報われていると思えば、新参より後になることなど気にすることではありません。

 

皆の僕になりなさい

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕えるものになり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:25-28) 

  「実るほど頭を垂れる稲穂かな」てきな、あるいはどちらかというと「頭を垂れるほど実る稲穂かな」ですかね。「人のため」あるいは「神のため」ということを忘れるべからず、ということでしょうか。例えば権力を持ったとして、その権力を自分のためではなく民衆のために駆使する場合、それは民衆の僕として働いていることになると思います。なので「僕になりなさい」というのは単に「僕の身分になりなさい」「出世するな」という非生産的な自虐の話ではなく、広い意味での「献身」ということだと思います。

 献身。少し話が逸れつつあるかもしれませんが、「神に仕える」ということについて、持論を。自分が扱うことができる力を、それを自分の力と思って自分のために使うのではなく、神の僕として神のために駆使するということ、僕はこれをかなり素敵なことだと思っています。僕はサリンジャーの『フラニーとゾーイー』という本が大好きなのですが、その中で、俗物に嫌気がさして全てを投げやってしまったフラニーに対してゾーイーが次のような話をします(フラニーは才能のある学生女優です)。

きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら――神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上きれいなことってあるかね?

J.D.サリンジャーフラニーとゾーイー』 野崎孝

僕はここを読んだときに世界が神々しく輝いてはじけるような衝撃を受けました。今までで最も強烈な読書体験です。その瞬間に視界が大きく開け、それが今の僕の思想に大きく影響しています。ちなみに『フラニーとゾーイー』は村上春樹訳より野崎孝訳の方がオススメです。

 誰かに仕え、そのために自分の能力を発揮するということ。あるいは、その能力というのはそのために与えられたのだということ。その役割を全うすることこそ人生の至上の目的なのではないか。特殊な才能を持った人は神のためにその才能を使えばいいし、普通であるべき人は神のために普通であればいいんですよ。本当のところで犯罪者に生まれついた人がいるならその人は神のために犯罪をやればいい。神の僕としてその与えられた役割を全うする、あるいはしようとすることを良しとする、その肯定の力を僕は信じています。正義とか、善悪とか、そういったあいまいな価値観によっては何も定まりませんが、その人にとっての「天職」は定まり得ます。逆に言えばそうすることでしか正しいことなんて何一つできないじゃないですか。みんなそれぞれが自分の自分らしさを神のために発揮すればいいという、存在の圧倒的肯定。これ以上きれいなことってあるかね?