イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

完成度

 どうも、たけです。そしてたけである。

 ブログに期待する機能として「ツイートしただけだと流れて行ってしまうものをそれなりにとどめておける」というものがある。後で変わる考えや的外れな意見だとしても、そのときそう思っていたということを残しておくことには一定の価値を感じる。持論みたいなものをドヤ顔で書き残すことには滑稽さもあるけれど、「こんなブログをやっといて何をいまさら」とも思うので、今後はより積極的にこういうこともやっていこうと思う。こういうときは「だである調」の方が書きやすいのは、対外性を下げるという照れ隠しなのかもしれないし、脳内言語をそのまま流し出す心地よさによるものかもしれない。今はわりと(いつも以上に)自己肯定感が高くてオラついてるので、少し前に気になったトピックを掘り返してみる(エクスキューズが多いな(というのもまたエクスキューズである))。

 

 みんな大好きMCバトル、呂布カルマがインタビューでこんなことを言っていた。

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フリースタイルの練習すんのってマジ無駄なんで、それは即刻辞めた方がいいと思います。

曲作りを常にしてれば。サイファーでなんとなくなーなーでやるフリースタイルよりもよっぽど精度の高い脳内フリースタイルを常にした状態が曲作りですよね。そっちをやった方がよっぽどトレーニングになると俺は思ってて。サイファーって安いんすよ。安い言葉、目の前にポンと落ちてきた言葉に手を出す悪い癖がつく。サイファーはオススメしないです。遊びとしてはいいと思うけど。

 

 僕なりにこれはピンとくる話で、自分も肝に銘じておかないと、と改めて思った。僕はモノづくり的なことに興味のある小学四年生で、この界隈には製作物の完成度を追求しないまま、あるいは一定の完成を迎えないまま次のアイデアに興味が移ってしまう人がたくさんいる。僕自身にもそういう中途半端なまま止まってしまっているものがある(深く反省)。それはよくない癖だと思う。所感として「60%の完成度のものを5個作った人よりも、95%の完成度のものを1個作った人の方が技術力が上質」ということは多々あるようにと思う。0%→60%にする技術と、60%→95%にする技術は質が全く異なる(100%になることはない)。質が異なりはするが、後者は前者の上位互換であることが重要である。

 

 例えば、ある製作物がA、B、Cの3つの要素の組み合わせで構成されているとする。60%の完成度でいいのなら、この3つの要素はそれぞれを独立に考えて組み合わせればそれなりに動くことだろう。しかし、95%の完成度を目指す場合、それぞれを独立に設計するだけでは到達できない領域がある。Aをうまく機能させるための配慮がBに求められたり、Bを高度化するための要求がCを高度化するための要求と衝突したりなど、全体が絡み合ったより高度で複雑な設計が要求される。完成度を高めるためには全く違うパズルを解く必要があるし、そこで求められるスキルこそ重要である。逆にそういうトレーニングを積んでない人は、95%を求められてもそのやり方がわからない。

 この話題で重要なのは、こうした95%に至るためのトレーニングを積んでる人は、60%の完成度でいい場面においても、60%を作った経験が豊富な人よりもいいものを提供できるであろうことである。あるいはちょっとしたアイデアを出すだけでもそこに差が出る。60kgのバーベルをギリギリ持ち上げたことが5回ある人よりも、95kgのバーベルをギリギリ1回持ち上げたことがある人の方が、楽に、より安定して60kgのバーベルを持ち上げられるであろうことと同じである。

 

 これは読書なんかにも言えるかもしれない。特に自分は読書好きというわけではなく、読書そのものが喜びというよりは読書から何かを得たいという気持ちで読書しようとしている(あまりできてはいない)。とすると、読書家の人に憧れてたくさん本を読もうとするよりも、それなりに絞った本をしっかり読み込む方が身になるかもしれない(あるものをしっかり読もうと思うとそこから派生して色々読んで知識が広がるというのもある)。さくさく多読できたとしてもほとんど忘れてしまう。とはいえ、インプットに関しては単純に数が多いほどいいということもありそう。

 ボードゲーム。たくさんのゲームを渡り歩く楽しさもあるが、一度どれかをやりこんでみるとボードゲーム全体に対する理解度がグッと上がる気がする。どれかをそれなりにやりこむことで、その根底に通ずるいくつかの基本要素の概念をしっかり理解できる(例えば僕はドミニオンを通して「圧縮」「勝利点を取りに行くタイミング」の概念と重要さを学んだ)。その理解は他のゲーム(あるいは人生)にも応用できるし、逆にそれをしないといつまでも浅いところでしか楽しめない。

 

 なんとなく、「意識高い系」の構成要素に「60%の完成度のものを5個作って満足してそう」みたいなものが含まれている気がする(努力している人を「意識高い系」と言って冷笑するのはよくないと思う一方で、そこには揶揄されるだけの悪い要素もあり、それらと紙一重、あるいは十分に意識高い系でもある僕自身がその悪い要素を持っていれば吐き出したいので、「意識高い系」を「意識高い系」たらしめている要素には興味がある)。とにかくハッカソンなんかは実にくだらないイベントだと思う。遊びとしてはいいと思うけれど。

 余談だが、僕はいわゆる「意識高い系」を、今のところ、「能力の高さではなく意識の高さで群れる人たち」と定義している。

 

 一方で、完成度の高さを追求しようとするときはその気持ちの強さと同じだけ、facebook社の壁に貼られているらしい下記フレーズを唱えることも重要である。

完璧を目指すよりまず終わらせろ
Done is better than perfect. 

 これはもちろん60%でええんやでという話ではないと解釈している。僕はこれを「フィードバックサイクルを細かくたくさん回せ」ということだと理解している。例えば、製作物を人に見せて意見やアドバイスをもらうことは非常に参考になり改善につながる。人に見せるには一定の区切りまで進める必要があり、それが「まず終わらせる」ということである。「恥ずかしいから完成するまで人に見せたくない」みたいなやり方は多くの場合後から大きく修正しなければならなくなるだけの悪手である。人に見せずに自分で見直すだけだとしても、ある区切りまでまず全体を進めてしまうことは非常に大事である。まず一定の完成度でもいいから全体を終わらせる、その全体を通して見ることで明らかになる問題を改善していく。この螺旋状のサイクルを細かく回していくことで95%が見えてくる。60%で終わって次に行ってしまう人はその場で円形の軌跡をなぞっているだけで昇ってはいない。

 

 前置きの内容に立ち返る。ふと考えたことがあるとして、ツイートしてみるのは50%、ブログに書くとなるともう少しちゃんと言語化して考えをまとめるので80%くらいの練度になるかもしれない。そういう機能も期待したい。1ヶ月更新が止まったことによりこのブログの完成度は60%に。