イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その10 - ヨハネによる福音書 7-11章

 どうも、たけです。

 聖書通読企画、ヨハネによる福音書の二回目です。先に読んだ「マタイによる福音書」とイエスに対する印象が異なってきました。

  

 

生きた水の流れ

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。(7:37-39)

 イエスの教えでは「求める人には与えられる」というノリがあり、「わたしのところに来て飲みなさい」というのはその感じです。さらに、その次の「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」というところは一つのポイントですね。常にイエスから与えられるものではなく、信仰によって自分自身の内に聖霊を宿すことができ、自らが恵みを与える側にもなれるということでしょうか。

罪を犯したことのないものが

 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いたものは、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたに罪を定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8:3-11)

 有名なやつきましたね。世の炎上案件なんかを見てるとこういうことを思うことがあります。とはいえ、潔白な人しか批判する権利を持たないとするというのも、誰も何も言えなくなってしまいますし、ちょっとどうなのかなとも思います。ただ正義の鉄槌で人を殴ることが大好きな人たちにはこういう反省的な視点をぜひ持ってもらいたいものですね。

 このエピソード、「わたしは罪を犯したことがないので」って石投げる人がいなかったのはみんな敬虔ですごいことですね。今SNSでこんなこと言っても「いや私は潔白に決まってるやろ」って言ってそのまま石投げ続ける人いっぱいいそうです。こういう謙虚さというか、「罪を犯す側の気持ちだってわかるやろ」という寄り添い方を推奨するのは正しい一方で、この説教を実践すると反省能力を持ったまともな人が黙って、反省能力を持たないやばい人が引き続き石を投げ続けることになりそうですね。

 そしてこのときイエスは地面に何を書いてたんや。みんなが去るまで間を持たせるために一回消して書き直したりしたのかもしれない。

エス、逃げる

 ユダヤ人たちが、「あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』。」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。(8:57-59)

 8章の後半は、イエスが自分がメシアであることを説明する場面でした。が、最終的に信じてもらえずに石を投げられかけるという珍しい展開でした。イエス一休さん力をもってしても、奇跡なしに信じさせるのは難しいんですね。ここでの一連のイエスの説明は「あなたたちがこれを理解できないのはあなたたちがわたしを信じていないから」みたいな言い回しが多く、たしかにそれじゃ納得できんわなと思います。メシアレベルの概念になると仕方ないのかもしれませんが、「あなたがこれを理解できないのはあなたが馬鹿だから」というのはTwitterバトルでもよく見る嫌なやつですね。

見える者は見えないようになる

エスが盲人の目を見えるようにした後、それを安息日に行ったこともあってアンチにいろいろ言われます。

エスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(9:39-41)

 そうそうこういうのよ!イエス一休さん力。基本的にイエスの教えは謙虚さを重んじてるので、僕は好きです。

その業を信じなさい

それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(10:36-38) 

 「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」って、前田敦子の名言「わたしのことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」っぽいですね。AKB好きやったんかな。

 「マタイによる福音書」における「荒野での悪魔との問答」に関する「カラマーゾフの兄弟」での解釈(→聖書通読企画 その1)で、「イエスは奇跡による信仰を望んでいない」とあり、マタイ~を読んでる分には「たしかにそんな感じだな」と思っていたのですが、ヨハネによる福音書を読んでいると奇跡を見せつける場面や、「メシアじゃなかったらあんなことできひんやん」みたいな説得をする場面がわりとあります。なので「イエスは奇跡による信仰を望んでいない」という解釈にちょっと疑問を抱いてもいます。かといって、疑われたときにその反論のために何か奇跡を行うことはないので、あくまで信仰者の前でより信仰を高めるための奇跡ならOKということなのかもしれません。

 11章でもそういう場面があります。死んでしまったラザロを生き返らせる場面です。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。(11:38-44)

  まずイエスがラザロを愛していたとして、どういう基準で人を選んで生き返らせたりするのかはよくわかりませんね。そして太字にした部分。こう言われるとめちゃめちゃ見せつけるための奇跡やんってなりますね。

 

今日はここまで