イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 紹介&感想

 どうも、たけです。

 憂鬱な風潮がまかり通っている今日この頃。“今読むべき本” 第一位(たけ調べ)である、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の紹介と感想です。(ちなみに次回は第二位の『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』を扱います。)

 

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www.heibonsha.co.jp

 

概要

 上記サイトから内容紹介を引用します。

 セクハラや差別が跡を絶たないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫る。「週刊読書人」論壇時評で注目の、気鋭のデビュー作。 

 目次は次のようになっています。

まえがき みんなが差別を批判できる時代
第一章  ポリティカル・コレクトネスの由来
第二章  日本のポリコレ批判
第三章  ハラスメントの論理
第四章  道徳としての差別
第五章  合理的な差別と統治功利主義
第六章  差別は意図的なものか
第七章  天皇制の道徳について
あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

 「そうそうこれこれ!」という内容ですね。著者のノートでまえがきが公開されています。

note.mu

ずっと感じていた憂鬱

 もちろん僕も世の中から「差別による不幸」がなくなればいいと思っていますが、かといって世の「善良な人たち」が正義を振りかざしている様子にずっと不満がありました。差別する人のことを平気で差別して正義の鉄槌を食らわせようとするこの人たちは正義なのか?と。単純に自分の正義性をそれだけ強く信じられるということに、(差別主義者に対するものと同様の)恐ろしさを感じますし、また差別をなくすための政治戦略的な面でも、もっと相手の気持ちに寄り添って考えないとどうにもならなくない??と思います。

 例えば、(これは極端な見方だと自覚もしていますが)新潮45の問題が起きた時に新潮社に対して不買運動をしている人がいて、「新潮社から出版された」というだけで内容の是非に関わらず攻撃対象とするのはまさしく差別的では?と思いました。新潮社からも良本は出てるでしょうに。この人は「差別構造を無くす」ことではなく「特定の差別を排除すること」、あるいは「罰を与えること」が目的なのかもしれないと怖くなりました(デモとかストライキはそういうノリではないのでこわくないです)。

 また、この章の最初に「もちろん僕も世の中から「差別による不幸」がなくなればいいと思っていますが」と書いたように、僕は「差別による不幸」がなくなればいいと思いますが、「差別思想」がなくなればいいと思うかというと微妙です。人の思想にとやかく言う権利は僕にはないと思うので。幼児性愛者が幼児性愛的嗜好を持つこと自体は問題ないのと同様に、差別思想を持つこと自体は問題ないはずです(もちろん差別的行為によって他人を不幸にすることは迷惑です)。なので「差別的行為」だけでなく「差別的思想」を撲滅しようとするかのように平気で「正義の鉄槌」をやれる人たちが怖いです。僕は差別主義者が差別主義者のまま幸せになれる差別のない世界を目指すべきだと思います。

 「これは差別ではない」と言って差別する人や、「これは正義の差別である」と言って差別する人に対して「差別はいけない」といくら言ってもどうにもならないわけじゃないですか。(相対主義的見方が必要なことは当たり前の前提として)相手の立場に寄り添って説得しない限り、相手を納得させること、あるいは折り合いをつけることは難しいです。犬を食べる文化のある国に対して「日本では犬を食べないからお前も犬を食べるな」と主張することが的外れなのと同じです。そういう工夫をしない限り、結局は「ある考え方A」と「ある考え方B」との勢力争いにしか過ぎないわけです。善と悪でも、正義と悪でもなく、好きと嫌いの対決でしかない。今日もツイッターのトレンドに「#好きです韓国」と「#嫌いです韓国」が並んでいて憂鬱になりました。これらは同じです(もちろん平和を目的とする場合には前者の方が都合はいい)。そして勢力争いでやってる限り、声のでかさで決まってしまう。

この本の魅力

 長々と自分語りしてしまいました(ブログとはそういうものですよね?)。さて、様々な知識が不足した状態でそういう不満を抱えてる僕にとって、この本は非常にありがたかったです。自分が漠然と抱えている事柄に対して、様々な知見を引用しながらちゃんと筋を通して理性的に解説してくれてるからです。

 やはり何事も問題解決のためには相手側の立場に寄り添う必要があると思うのですが、この本では双方の立場を「シティズンシップ・ポリティクス」と「アイデンティティ・ポリティクス」の対立として分析します。これが非常に明解です。最初から最後までこの軸が通されていて非常にわかりやすいです。そして、その軸で説明できるということは、一連の問題というのが「考え方A」と「考え方B」の対立であり、善と悪の対立や正義と悪の対立といった単純な問題ではないということがわかります。また、「合理的な差別」「差別は意図的なものか」というテーマは非常に重要というか厄介というか、ちゃんと向き合わないといけない。

 また、刑罰に対する考え方としての「応報主義」と「帰結主義」から丁寧に説明したり、投票に関しても前提までさかのぼって説明したりと、本当にかゆいところに手が届く、一通り解説された本だったように思います。どれも重要な前提です。例えば「表現の自由」にしても、「ヘイトスピーチはダメだがこれはいい」というためにはちゃんと理論を固める必要があって、そこを雑にしたままただ「悪いから」と叫んでいては将来自分の首を締めることになるかもしれない。だからちゃんと前提となる理論を固めることが大事です。今世の中で起きているいろいろな事象に対して、解像度を高め、かつ本当の解決に向けて真摯に取り組むためにも、今読むべき本なのだと思います。

 

 以上、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の紹介と感想でした。次回の『欲望会議「超」ポリコレ宣言』 に続く。