イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

サイで考える罪 応報主義と帰結主義

 どうも、たけです。

 刑法学に関する聞きかじりのにわか知識で考え事をします。そういうブログなので許してください。

きっかけ

 こんなニュースがありました。

www.asahi.com

 このニュースをきっかけにして、このニュースとは異なるフィクションの中でいろいろ考え事をしたいと思います。人を殺したサイに罪はありますか?あるとすればどういう罪ですか?サイは罰を受けるべきですか?受けるべきとすればそれはどんな罰ですか?

 

応報主義と帰結主義

 さて、先日紹介した綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど』の第6章「差別は意図的なものか」の中で、刑罰理論の応報主義と帰結主義の話がありました。

 犯罪者は自由に行為を選択して法を犯した。それゆえ、犯罪者はその行為に見合った罰を受ける。これは当然の報いである。このように刑罰を正当化する議論は、応報主義と呼ばれる。いっぽうで、刑罰は、ほかの犯罪を抑止するなど、さまざまな社会的利益を期待できるとして、その社会的利益をもって刑罰を正当化するような議論は帰結主義と呼ばれる。

綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど』 P. 255

「応報主義」では、その行為の「罪」に対する報いとして「罰」を与えることを正当化します。

帰結主義」では、今後の犯罪抑止や再犯防止といった社会的利益を期待することで「罰」を与えることを正当化します。

 

人を殺したサイの場合

 では、それぞれの考え方で「人を殺したサイ」について考えてみます。

応報主義の場合

 人を殺したのだから、「人を殺した」という「罪」に対する報いが必要であるとして、サイに罰を与えることを正当化することは可能だと思います。

帰結主義の場合

 サイに罰を与えるためには、サイに罰を与えることによって期待される効果を説明する必要があります。例えば「攻撃性の高いサイであり、今後も同じような被害が出てはいけないので、対策が必要である」というものです。しかしながら、これは必ずしも「罰」を正当化するものではありません。あくまで「今後同じような被害が出ないように対策すること」の正当化であり、それは必ずしも殺処分や拘束とは限らず、飼育環境の改善や野生に返すなど、様々な手段が対象となります。そしてそれが「罰」である必要があるのか、「対策」なのかは気になるところです。

動物の攻撃性

 たとえば家で猫とインコを一緒に飼っていたとして、その猫がインコを食べてしまったとします。このとき、猫に罪はありますか?

 たとえば野生のトラを観察しに行った人が、そのトラに襲われて殺されたとして、そのトラに罪はありますか?

 というような問いを考えると、そもそも攻撃的(とも言える)性質を持つ動物がその攻撃性を発揮することに罪を認定できるかというと、なんだかそれは人間の都合による理不尽なことのように思えます。この理不尽さは応報主義的には「罪」を認められないから罰も何もない、ということ?知らんけど。帰結主義的にはそれを非難するによって得られる効果がないということ?知らんけど。あるいは異なるルールで動いてる世界に自分のルールを適用することが理不尽だから?

 理不尽といえ、熊の殺処分や野良犬野良猫の殺処分などは行われますよね。それは応報主義的に罪に対する報いとして行われているというよりかは、帰結主義的に考えたところの「対策」であり、「人間社会的に被害を少なくしたい」と「なるべく動物に攻撃したくない(倫理的葛藤)」とを天秤にかけた結果として前者を優先した結果であると思います。その場合、あえて嫌な言い方をすれば、動物たちは人間社会の都合によって犠牲になっているわけです。その是非については特に意見はないです。そういうもんでしょう。

人間の攻撃性

 たとえば生まれつきの性質として、さらには生まれついた環境の影響によって、攻撃的な人がいたとして、その人がその生まれついた攻撃性によって人を攻撃した場合、そこに罪はありますか? 人を殺したサイ、インコを殺した猫、人を殺した野生のトラ、これらと同じように考えてみたとして、今考えている攻撃的な人には罪はありますか?てきなね。少なくとも帰結主義的には社会的な効果を期待してその人に対して何らかの「対策」を講じることを正当化可能だと思います。応報主義的に考えたとして、あなたは「罪」を認めますか?どうしますか?てきなね。

というお話

 というような疑問を投げかけたいだけのお話でした。僕はごりごりに相対主義者なので、みんなそれぞれの事情の中で勢力争いしているだけで絶対的な善とか悪とかわかりませんし、その勢力争いの片側に対して安易に「罪」を認定するような思い上がりは嫌いだし、誰かに干渉することを正当化するには「帰結主義」的な考えでしか難しいと思っています。それも正当化できているというよりかは「最もマシ」という感じですが。『「差別はいけない」とみんないうけれど』にもそういうきっかけでこの話題が出ていると思いますが、ネット炎上にしろ差別批判にしろ、応報主義的な「罪」を認定してわらわら叩いてるのが気に食わない。その程度で「罪」なんていいだしたらみんな山盛りかかえてますよ。僕には「悪意がなければ別にいい」という感覚があって、さらにそこから「悪意があって悪意があるわけじゃないから別にいい」みたいなことにまでなっています。僕は殺処分された野良犬に対して「帰結主義的な天秤によって社会的利益を優先されたんだな」と思いますし、京アニに放火した人がもし罰せられたら「帰結主義的な天秤によって社会的利益を優先されたんだな」と思いますよ。というお話。