イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

足すこと

どうも、たけです。

足すことについて、ざっくばらんに考え事。

 

例えば、

① 周囲がうるさい時に、イヤホンの音量を上げて聞こえやすくすること

② ちょい足しグルメ

③ 二次創作

これらはそれぞれ何かを足している。

 

①では負の勢力に対してより強い正の勢力を足している。

②では既にあるものに対して自分好みのものを足している。

③では既存のストーリー、キャラクターに対して、新たな場面や設定、物語を創作して足している。

 

①は「うるさい時にとる対策が『よりうるさくすること』」という一見パラドキシカルな構造がおもしろいと思うだけで特に文句はない。

そう思うとノイズキャンセリングは引き算の発想と言える。引き算の方がスマートな感じはするが、果たして。また「引き算によって0にする」と「0をかけることによって0にする」の区別も必要である。

 

②は、おいしくなるなら普通にいいし、そうでなくても、まぁ、好きにしたらええやん、と思いつつ、何か能動的なことを加えないと楽しめないとするとそのナルシズムが気になる。アーティストのライブにおいて受動的に視聴することよりも能動的にはしゃぐことを楽しみにする人にも同様のナルシズムを感じる。

これは妬みであって、自意識にやられることなくナルシズムを満喫できた方が幸福度は高いと思う。

 

③は、好きなキャラクターを操り人形にして自分の好きなように行動させる、そしてそれを愛情表現として扱う、ということにわりとグロさを感じている。パロディやオマージュともまた違うタイプのやつ、つまり原作の世界観の中でやってますよというノリのやつに対して、思う。そういう文化なのはわかるし、その分野なりのオリジナルへのリスペクトのあり方があるんでしょうけど。原作側が容認してるかにもよる。ただ、支配的な欲望をあらわにしてるよな〜という印象を持っている。

 「応援」というのは、相手が「自分が相手に望むこと」をなすのを応援するものではなく、相手が「相手がしたいこと」をなすのを応援してこそである。相手に自分のしてほしいことをさせる二次創作には不気味さを感じる。

 

以上。