科学信仰
どうも、たけです。
宗教の勧誘の人が来て
— かずたか@プログラミング独学 (@kazutaka_dev) 2020年2月11日
「科学では説明できない現象に触れた時、神の存在を感じませんか?」
と言われので
「科学とは現象ではなく、それを解明するプロセスそのもの。なので未知の現象を目にした時は神よりも科学の新しい可能性を感じる」
的なことを熱く語ったら引きつった笑顔で帰ってしまった
このどこの誰だか知らない人のツイートが、観測範囲の理系研究者界隈にちやほやされいて、よく思うもやもやが再燃したのでその話をします。
上記のツイートにあるような話は、私は神を信仰しているのではなく科学を信仰しています、というだけの話です。そこに自覚がないのはださい。「未知の現象にであったとき、神の新しい可能性を感じる」と思うか、「科学の新しい可能性を感じる」と思うかだけの違いであって、どちらもそれぞれの信仰対象に説明を求めているだけで本質は変わらない。
科学的正しさと言うのは、「こういうのを科学的に正しいということにしましょう」と決めた人たちが「これは科学的に正しいですね」とコミュニティの中で承認しあっているだけのことである。
「科学」は別に「学術」「芸術」に置き換えてもいい。学術的正しさを定義した人たちが「これは実に学術的である」とほめる感じや、芸術的良さを定義した人たちが「これは実に芸術的である」と評価する感じの、自作自演のオナニー感よ。「ロックだね」とか「HIP HOPだね」なんかはその特殊性に自覚がある雰囲気があるのですっと受け入れられますが、「科学的正しさ」や「学術的正しさ」についてはそれらが絶対的に正しいことであるかのように認識している人が多いように思う。信仰ですよ、それ。
とはいえ、僕は別にアンチ科学とか、疑似科学最高とか、自然療法万歳的なノリは全くないし、むしろ論理にひれ伏しているので学術とか科学寄りの考え方をしている。それに神ではなく科学にロマンを感じた人が科学を信仰するのは当然のことであり、存分に信仰していってほしい。
ここで何が言いたいかと言うと、科学的正しさを信じるということは、本質的に科学信仰なのだから、科学信仰として伸ばしていった方がいいのでは?ということ。科学信仰なのに、科学信仰じゃないふりしていろいろやってこうとすると無理が生じる。
科学研究費が削られてるとか、一部分野が「役に立たない研究」として予算が削られる話などをよく聞く。まず「この分野だってこういう風に間接的に役に立ってます」というような反論はやめた方がいいと思う。生産性バトルの土俵に持ち込んでしまうと勝機が薄い。そうじゃなくて、科学神の威光によって価値を高めた方がいいのではないか。
「学術の発展への取り組みというのは人類にとって高尚な営みである。だからお金を使うべきである。」
これでなんとかなりませんかね。