イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

渦 その1

 「渦」ではなく「禍」らしい。どうも、たけです。

 小学4年生なりに、これまでの人生で経験した中で社会的に最大規模の出来事が起きている(規模で比べられないものはたくさんあるが)。こういう時に考えたことを都度記録しておくのはいいことな気がする。では、コロナ禍について。

 

非日常

 規模がでかすぎる。面積的にも時間的にも。常日頃から「早く隕石落ちて全てを終わらせてくれ」と思っているが、こういう終わらない形で世界的大規模災害が訪れるとは。こうした非日常はいつまで続くのか。それともこれが日常になっていくのか。いずれにせよCOVID-19以前以後で世界は変わるわけで、(不謹慎ではあるが)その節目の渦中にいることに興奮している自分もいる。退屈がまぎれる。

 

日常

 もともとなるべく家にいたいタイプの人間なので、家にこもることは全く苦痛ではない。家にいたすぎてコロナ以前からリモートワークできる環境を整えて勝手にやっていたので、その点は困らなかった。今年度中はお小遣いも減らない。人との接触はほぼなく、コロナ的にはかなり安全な生活をしている。目標にしていた重要なイベントが延期になったり影響を受けてはいるが、忙しさが分散してむしろ助かっているくらいである(これは半年程度で収束のめどが立てば、の話)。ラッキーだと思う。

 このように自分の日常がたいして変化していないためか、現時点では自分事としての実感が薄い(志村けんにも思い入れがなかった)。サリンと9.11は記憶にない。3.11のときはショックで呆然としながらテレビに映る悲惨な映像を眺めていた。今回はまた違う感じである。これが今後徐々に自分事になっていくとしたら、その過程もブログに記していきたい。

 

自粛

 よく言われているが、「自粛を要請」というフレーズはどこか不思議である。「自主練を強要する」みたいなものである。しかし、「ご遠慮ください」なんかは同じ構文のわりに馴染んでいるので、これまた不思議である。ちなみに僕は「ご遠慮ください」にもちゃんといちいち引っかかっている*1

 そもそもこれは「禁止する権限はないのだからそう書くしかない」ということである。このような事態に、政府は市民の自由をどこまで制限することができるのか。そして制限に伴う賠償はどのようになされるべきか。今友人たちとの読書会で『アナーキー・国家・ユートピア』を読んでいるのもあってこの辺りは気になるポイントである。功利主義的な考えに基づいて全体の利益のために個人の自由を制限することは容認可能か。

 賛同するかどうかは別として、下記ツイートにはうならされた。パワーバトルである。

 

政治

 この騒動に対して各国いろんな対応をしていて興味深い。日本もマスク二枚の配布を決めるなど大胆な政策を打ち出していて興味深い。政治のことはよくわからないので、全文末に「知らんけど」をつけて読んでいただきたい。

 さて、遡ること2011年、東日本大震災。震災への緊急対応を一通り終えた後、当時の菅首相は辞任した。どういう経緯でそうなったのかはよく知らないが、当時の僕なりに「未曽有の災害に対して完璧に対応できることなんて誰もできないだろうし、こういった出来事の後は何かしら批判されて政権を降ろされるものなのだろう」という印象を抱いた。一方で、安倍政権は長い。なんとなく、コロナ禍を終えた後も「コロナ禍を乗り切った首相!」みたいなノリで政権を維持してそうな雰囲気がある。この防御力の高さはなんなのだろう。

  給付金の対象が全住人ではなく、収入を基準に線引きした世帯単位(個人ではなく)だったりするのはどういう思想なのだろう。いろんな経済活動に自粛を求めている一方で、お金を配ったら経済活動が活発になって感染拡大してしまうという懸念があるのかもしれない。世帯単位なのは家族を大事にしてほしいから?よくわからんが。いずれにせよ、ツイッターで賢い人たちが述べているようなまっとうな正論というのがこの世でどの程度実効的な攻撃力を持てているのか気になる。そんなやわな相手ではないと思うし、相手側が大事にしている思想の軸を理解することが大事であるように思う。

 マスク二枚を御守りとしてありがたく頂戴して大切にする世界なのかもしれない。ソフトバンクユーザーがドーナツ無料でもらえるみたいなやつでミスドに行列できてたように、そういうのはなんだかんだみんな好きなはずである。

 

オリンピック

 東京開催が決まったころから賛否両論ある東京オリンピック。当初経済的な理由で開催を批判していた人もいたけれど、投資しまくった後の今となってはもうその理由は通用しなくなってるのではないか。

 東日本大震災からの「復興五輪」をコンセプトとして掲げていたが、それが今やコロナ禍からの世界的復興五輪にパワーアップした。オリンピック開催の是非については特に意見は持っていないが、実際のところとして、世界が協力して仲良くコロナ禍を乗り切った後にようやく開催できたオリンピックともなれば、さすがにそれはもうブチ上げのお祭りになる気がする。

 あと知り合いが出場内定していたので、個人的にその人の心境が気になりはする。今世界中に「オリンピックに出れたのに出れなくなった人」というのが出ていると思うと、洗練された人間に憧れを抱く自分としてはわりと切なさが強い。

 

エンタメ

 将来エンタメ業界で働きたいと思っているが、現在ライブシーンはズタボロである。不要不急のエンターテイメントが、コロナ後の世界でどんな感じになるのかは自分の将来にも大きく影響してくるかもしれない。音楽シーンでは音源の売り上げよりもライブの売り上げの割合が増えていると聞いたことがある。シーンの中心は「視聴」というよりも「体験」「共有」に移っていたはずである。それの流れに強烈な歯止めがかかった中で、どういったエンタメがサバイブしていくのか。

 舞台装置的なものを作りたいと思っている自分にとっては、ライブシーンが盛り上がっている方がありがたかった。コロナ後の世界では、自分はやや不利な立場に置かれるのかもしれない。

 

アップデート

 こういう巨大なインパクトによって、古い不要なシステムが更新されていくのは効率的で良いことだとは思うが、当然なにかしらの副作用を伴うはずである。コロナ禍の中で「日本が選択と集中によって不要なものを削ってきたせいで有事の時に柔軟な対応ができない」という批判をよく見るが、それを言うなら「あれもこれもリモートでいけるやん」「ハンコいらんやん」という切り捨ても同様の危険性をはらんでいると言える。以下のツイートが印象に残っている。

 

よくわからんが

 いつまでこういう感じが続くのだろうか。季節性のものではないとすると、「治療法の確立」か「ワクチンの確立」か「全員感染して免疫獲得者だけが生き残る」かでしか収束し得ないように思える。知らんけど。

 

とりあえず今はこんな感じです。

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com

*1:例えば「ここでの飲食はご遠慮ください」と指示された場合、それに従うためには一度「飲食したいな」と思ってから「でも遠慮しよう」と思わなければならない。遠慮というのはそういうものではないか。僕としては「ここでは飲食しないでください」あるいは「飲食したい人は飲食をご遠慮ください」としてほしい。「飲食したい人は」が省略されていると思えば許せる。