イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

渦 その3

 どうも、たけです。コロナ禍の中での考え事シリーズです。今回は社会的正義風のマスク買い占めについての考え事と、将来がどうでもよくなっていく話です。

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com

 

買い占めと公共性

はじめに 

Appleがフェイスシールド製造に取り組んでいるという記事。

www.gizmodo.jp

見出しの内容とはそれるが、最後の方の次の文章に引っ掛かった。

さらに、アップルは2000万枚以上のマスクを確保。このマスクは、アメリカ政府へと寄付されることになります。

孫正義も同じようなことをしていたっけ。これらのマスクはどこから来たのだろうか?

一般人による量販店でのマスク買い占めは批判されがちであるが、この人たちのマスク買い占めは問題ないのだろうか? この問いに関して、批判派の僕 vs 擁護派の僕で議論してみる。

議論

開幕

批判派「これはなんだか英雄行為風ではあるけれど、要するに他の場面では批判されている”マスク買い占め”なのでは?」

擁護派「いや、批判されているのは”個人の必要量を大きく超えた過剰なマスク買い占め”である。マスクを集めて政府に寄付し、理性的判断のもとで必要なところにマスクを分配することは有益である。」

批判派「そのマスクの入手先というのはどこなのか? 仮に国内であった場合、それは国内市場からマスクを買い占めていることになり、市民にマスクを届きにくくしているのではないか? 一方、海外からであった場合、国益を優先すべしという考えのもとでは自国に優先的にマスクを確保することは国益となるが、国際的に見た場合には他国に対してマスク買い占めを行っていることになる。」

 擁護派「では、ここで議論を二つに分けましょう。」

議論①:マスクの入手先が海外である場合

擁護派「マスクの入手先が海外である場合、その入手先ではマスクが余っているということです。よって、『その国からマスクを買い占めた』とは言えません。その国のマスク生産は潤沢であり、その国から他の国へのマスク供給も引き続き行われている可能性は高いのではないでしょうか?」

批判派「そうであればあまり問題ないかもしれません。そうでなければ国際的に見た”買い占め”だと思います。あるいは、その海外の工場が収益のために自国民への供給を犠牲にしている可能性もあります。可能性の話になってきたので、もうこれ以上はなんとも言えません。」

議論②:マスクの入手先が国内である場合

批判派「入手先が国内である場合、国内市場からマスクを干上がらせている一因になると言えませんか? マスクを入手できていない市民は多いと思いますが。」

擁護派「マスクは政府から配給されるので安心してください。また、医療関係者や福祉関係者などはマスクの必要性が他より高いです。必要性の高さに応じてマスクを配分するためにも、マスクの供給を政府が管理することは重要です。」

批判派「それはわかるんですけど、なんか腹立つんですよね。これはもう腹が立つという話ですので、議論はここで終わりにします。」

擁護派「なんやねん」

腹が立つ話

 例えば、

能力の高い人間が、能力が低いけれどお金を貯めこんでいる人間からお金を奪って、「このお金は自分が使った方が生産性が高い」と主張する

みたいなことについて、どう思います? これはまんまドストエフスキーの『罪と罰』の話なわけですが。

 公共性を優先したときに発生しうるこういう主張に対して僕は慎重でありたくて、だから「いや朝から薬局に並んでマスク買い占める奴よりも医療関係者に行くようにした方がいいやろ」と素直には思えない。なぜ慎重でありたいかというと、功利主義的な主張はめちゃめちゃ強いから。強すぎるので、そういう思想の暴走が怖い。生産性で線引きすることの恐ろしさよ。

 一方で、理としては大きな力を持った人や企業や政府にしかできないことがたくさんあって、その力による強力な統治でしかなんともならないこともあるし、それでなんとかしてほしい気持ちもある。わがままである。

 

将来がどうでもよくなっていく

きっかけ

 ちょっと将来のことを考えたりもする。少なくとも今現在収入や生活に困っていないということで、気楽なものである。さて、渦 その1では次のようなことを書いた。

将来エンタメ業界で働きたいと思っているが、現在ライブシーンはズタボロである。

これがじわじわ来ている。

思想の変遷

 最近気づいたのだが、僕は将来どうなりたいとか、社会をどうしたいとかいう気持ちがほとんど、あるいは全くない。

 少し遡って話をする。僕はかつては「目的型人間」で、「将来に目的を据え、その目的達成のために日々行動する」というような意識高いノリでやっていた。しかし、その目的の理想が高すぎたことで自分の才能ではそれが達成困難に思えてきて、「これ目的達成できなかったときに、そのために犠牲にしてきたことがきつくなりすぎるな」と思って怖くなった。また、目的達成型の生き方というのは人生が「やるべきことをやっている時間」と「サボっている時間」に二分されるので、日常に余暇がなくなり、そのしんどさのコストの蓄積が目的達成時の喜びを超える見込みが出てきた。

 そこで、徐々に「目的」から自分を解放していき、目の前のいろいろをその都度楽しむスタイルに自分を改造してきた。この戦いはもう6~8年ほどやっていて、実際に変われているし、もうだいぶ板についてきたと思う。

 その結果が「将来どうなりたいとかがない」である。「社会をどうしたいとかがない」は最初からそうだった。やったね!と思っているけれど、とはいえ、難しいものである。目的があるとその目的に縛られてしんどいし、目的がないならないで意味がなくてしんどいとは。

エンタメすら

 今はその時々に目の前に現れたゲームの攻略を楽しむような生き方になっている。それなりに楽しいし、充実感もある気がするが、どんどん主体性を失っている感じがある。自分にやりたいことがないので当然である。本業にしても、成り行きでやることになったことをこなしている感じである。

 それでも「エンタメ業界に入って”作品”を作りたい」という気持ちは維持していた。薄まっていることには気づいていたが、見て見ぬふりをしていた。他にやりたいことが生じてないから、最後に持っていたものが更新されずにそのまま置きっぱなしだっただけかもしれない。

 そこにコロナ禍である。特に舞台系やライブシーンを中心としてエンタメ業界は大打撃を受けている。この業界で働くことの快適度が下がっていることで、「別にエンタメじゃなくてもいいんじゃないか」という言い訳の土台が自分の中で構築され始めているのを感じる。おれは「将来エンタメ業界で働きたいと思っている」すらも失うのか?

 

 結婚願望と子育て願望がないのも効いていると思う。 まぁ、なるようになれですよ。