イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

渦 その9

 どうも、たけです。コロナがくそヤバイ。今日も不要不急の雑記。

 

 コロナ禍ではさまざまなキーワード(流行語)が使われているが、その中でも「不要不急」という言葉の印象が強い。今から自分がしようとしていることは「不要不急」か?と考えるとき、その天秤の片方には「命」が既に乗せられている。しかし、そのもう一方に乗せようとしているのもまた命をつなぐための経済活動だったりする。

 

 コロナ禍が落ち着くためにはいくつかのルートが考えられる。

  • 特効薬やワクチンの開発と普及を待つ
  • 諦めて全員で緩やかに感染する
  • コロナが何回でも罹患する病だとわかるなどして絶望する

とか。いずれにしても、目標は「救える命を救うために感染爆発による医療崩壊を防ぐ」とするしかない。そうすると不要不急の集合を制限する必要性は発生する(そうしない場合は医療崩壊を防ぐ方法が「ある条件を満たす人にのみ医療を提供する」になってくる)。そして、そういう状態が「一か月我慢すれば終わる」というものでもない雰囲気が漂い始め、きつさが増している。

 

 命と命の天秤だけではない。命と比べればずいぶん軽そうなものとの天秤もまた、やっかいである。下記の記事のある部分にひっかかった。その1でも参照した「革命家」の記事である。

note.com

この〝不要不急の外出〟闘争についてSNSでもっともらしく〝批評〟し合っている口舌の徒や、おとなしく活動自粛して自身の表現など字義どおり〝不要不急〟のものでしかなかったことを自己暴露してしまったサブカル連中など、歴史の屑かごに放り込まれるに任せよう。

 天秤の一方に命を乗せられた状況で余儀なくされた苦渋の「自己暴露」に対して、実に辛辣な意見である。こういう選択もまた「一か月我慢すれば」という認識を取るかどうかによる。長期戦を覚悟すればするほど、”歴史の屑かごに放り込まれる”ことはリアルになる。

 例えば、ハンコは死ぬ可能性が高い。これはそれでいい例かもしれないが、例えば「対面授業いらないじゃん」という勢力も出てくる。そして何より、今後、ライブ会場の設備拡充にお金を費やす気になるか??というようなこと。いつでも突発的な感染病で活動停止するリスクを常に抱えた状態では、夢見る光景は変わってくる。

 

 さて、現在僕は名目上は人命救助に関わる研究に取り組んでいるが、別にそのテーマに熱意はなく、これを修業として将来は不要不急のエンターテイメント製作に関わりたいと思っている。自分もこういうことしたいな~と思って眺めていた会社は現在休業中である。不要不急だから、仕事が全部飛んだらしい。僕はまだ「もどき」でしかないが、今多くのアーティストやクリエイターは本格的に悩んでいることと思う。自分の仕事は不要不急なのか?

 一方で、今人々が家にこもって何によって幸福度を高めているかというと、それは何らかのエンターテイメントである。エンターテイメントは幸福度向上に貢献する。しかしながら、それは不要不急の集合を控えてのんびり家で娯楽を楽しめている人が対象である。その程度に余裕がある層をターゲットにすることの是非。

 

 あるいは別の考え方をすると、経済的には豊かでも幸福度が低い人だっていて、その人たちの幸福度を高めることができるなら、それは十分有意義だとも思う。僕にも今すぐあの曲を聞かなきゃ死ぬ夜がある。何が「必要緊急」で何が「不要不急」かなんて人それぞれで無限に多様なのに、命を天秤にかけることで公共性の重圧が重くのしかかってきて、あれもこれも不要不急になっていく。不要不急のない人生とは?

 Twitterで最も信頼のおける知性であるPsycheRadio氏がよく「自由より秩序、権利より安全というのが大勢になってきている」と書いている。

僕自身も公共性の波にのまれているのだと思う。世のために自分をどう使うべきかと考えてしまっている。「ただ作りたいから作る」とか、「ただ見せたいから見せる」とか、そういうことに罪が乗るようになってしまった。なにもしていないことに罪悪感を背負わされている。能力だって再分配の対象ではないのか。

 

 とか、言いつつ、結局のところは目の前の娯楽を追いかける人生に舵を切るべきだし、そうしかできないと思っている。風向き通りに進むのが一番進む。自分に与えられた才能通りのこと、素朴な志向通りにやりたいことをやることが最も生産性が高いとすると、それがなんにせよ最も世界を豊かにする。最も利己的な行動が最も利他的な行動でもあると信じたほうが生きやすい。生きやすいことはいいことである。自分に対して生きにくい思想を課すことは他人に対してそれを課すのと同じである。全員で生きやすく生きるためには、その対象に自分も含めなければならない。

 

きみとして今できるたった一つのこと、それは芝居をやることさ。
神のために芝居をやれよ。

J・D・サリンジャー『フラニーとゾーイ―』

 何かの才能を持って生まれた人は、それが不要不急であろうとなんだろうと、それに取り組んでほしい。それができる世界を望む。難しいのは、そこまで尖った志向があるわけでもなく、選択肢がいくつかある人間が、この世界で何を選ぶべきかである。適当でいいか。そのとき決める。

 とりあえず自分はしばらく生きていけるし、セーフティネットも豊富で安心している。のんびり、世界がどう変遷するのか、このまま高みの見物をしていればいい。変なプライドとか自負とか被害者に参加したい気持ちなんてフェイクである。全員死ね!

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com