渦 その11
どうも、たけです。今日は
- 「世帯主にまとめて給付」に関する追記
- 給付金の不申請・寄付圧力
の二本です。
「世帯主にまとめて給付」に関する追記
いろいろ気になったので、昨日のその10で「世帯にまとめて給付」に関して追記。そもそも「世帯」とは何かを調べてみると、厚生労働省の文書にはこう書いてある。
世帯とは、住居及び生計を共にする者の集まり又は独立して住居を維持し、若しくは独立して生計を営む単身者をいう。
「生計を共にする者の集まり」が世帯なのだから、世帯ごとに給付することの妥当性は強いように思う。婚姻と世帯統一がセットというわけでもないらしい。「今思えば世帯を分けるべきだった」という愚痴や、「世帯、分けといた方がいいよ」という啓蒙であるなら納得する。
他の場合はどうなのだろうかと少し調べると、例えば国民健康保険料は加入者のいる世帯の世帯主にまとめて請求されるらしい。今回の給付金が世帯主にまとめて払われることに不満がある人は、世帯主がまとめて支払うパターンにも不満を抱くべきである。一方で、住民税は世帯主ではなく個人に課税されているっぽい。このあたりの統一性のなさは確かに気になる。収入のない子どもに独立して世帯主になる選択肢はないので、そのあたりがポイントなのだと思う。これ以上調べるほどのモチベーションはなかったのでここで終わり。
給付金の不申請・寄付圧力
広島県の湯崎英彦知事は21日、新型コロナウイルスの緊急経済対策として県職員が国から受け取る現金10万円を、県の対策事業の財源に活用したい考えを表明した。自主的な寄付として募り、新たに設ける基金に積み立てる手法などを念頭に、仕組み作りを急ぐ。
こういう発想は当然出るだろう。あくまで「自主的な寄付を募る」のであれば問題ないっちゃ問題ないが、「圧力」が発生することに批判があるのだろう。また、給付金を申請しないことを是とする考え方や圧力も発生しているということ。
それが気に食わないとして、じゃあ何が問題なのか考えるためには、やはりそもそも給付金がどういう理屈で発生しているのかを気にしなければならない。ポイントは「本来給付されるべきでない人間が、迅速さを重視したが故の全員給付によって、不適切に給付を受けている」とみなせるかどうかである。これをその2で挙げた4通りの論拠でそれぞれ考える。
- 活動を休止してもらうための安心材料としての補償
- 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償
- 弱者(になった人)を救済するのための保障
- 経済を回すためのばらまき
1の場合、休業を要請されているわけでもなく、収入も減っていない県職員は本来受給すべきでないという発想が出るのはわかる。しかし、そもそもこういった補償は休業に対するものだけとは限らない。その2 の「生活の維持」の節で以下のように書いた。
一方で、政府としては「生活の維持に必要な業種には引き続き継続するよう求める」ということである。こっちも気にすべきではないか? こういう業務の中には人より多くの感染リスクを引き受けることによって成り立つものもあるはずである。ならば、その感染リスクに応じた補償だってするべきである。
仕事を続けていて収入が減っていない県職員も、「生活の維持のために仕事を続けさせられている」という点で給付されるべくしてされていると考えることができる。
この考え方でいくと、本来受給すべきでないのは「感染リスクを負わずに通常営業を続けており収入も減っていない人」である。緊急事態宣言や外出自粛要請により経済が低迷した悪影響は全員が受けると仮定すれば、全員が正当に給付の対象となる。
「2. 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償」の場合、緊急事態宣言や自粛要請が全国的に発令されているからには、全員が給付されるべきである。ただし、この場合は自粛要請などに応じていない人は受給すべきではないと言えるかもしれない。「みんな間接的に何かしら制限を受けている」と仮定すれば全員給付を肯定できる。
「3. 弱者(になった人)を救済するのための保障」の場合、迅速さ優先のためにしかたなく「余裕がある人」にも給付されてしまっていると考えることができ、それを「余裕がない人」に回せるに越したことはないと言える。ここでポイントとなるのは、政府が今後この仕方なさに対する匡正の実行を予定しているかどうかである。政府が「とりあえず全員に給付して、余裕のある人からはあとで何らかの税金なりで回収する」と予定している場合、自主的な再分配は不要である。
「4. 経済を回すためのばらまき」の場合、市場にお金がたくさん流れればいいと単純に考えると、別に余裕がある人にお金が入ったとしても消費さえしてくれればいいということになる。この場合に発生しうる心配事は大きく以下の二点である。
- 各個人は貯金せず消費してくれるのか?
- 「適切なところ」にお金を使ってくれるのか?
(貯金されたお金はそれはそれで銀行が何かしらに使うのかもしれないが、その辺はよく知らない)
こういった心配をする人は「余裕がある人からは給付金を誰かが取り締まって適切なところに使うべきだ」と考えるかもしれない。余裕があるかどうかの判断をどうやってするねんという話であり、そうすると「その判断が難しいから全員給付にしたんやろがい」というところに戻ってくる。今回取り上げたニュース記事のような話は、「自分たちの集団はその判断が容易なので、給付金を回収します」という話なのだと思うし、それはそれで妥当性がないとは言えない。
結局のところ「圧力をかけるな」という話である。今さまざまな分野が瀕死の状態で、「どこにお金を使うか」というのが「何を生き残らせるか」の投票行為となる。給付金を受け取らないということは投票先を行政に任せるということである。行政を信頼し、任せたい人はそうすればいい。給付金を自分の支配下に置いて、好きなように投票先を決めるのでもいい。その投票先を自分として貯金してもいい。そういうものである。
単に「余裕があるので行政に寄付します」という行動の手段として「給付の申請をしない」を選ぶというのは別に筋が通らない話ではない。ただ、大した論拠もない「雰囲気」によって選択の自由度が下げられるようであれば、不快である。