イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

共犯

 たけです。今週末はあわただしく過ごしていたけれど、花のニュースを見てからは心臓に灰色の石が停滞していて、ずっと頭のどこかではこのことを考えていた。

 

 テラスハウスを見てきて、様々な影響を受けた。「世の中にはこんな人がいるんだ」とか「こんな生き方もあるんだ」というように、自分の世界の認識が大きく広がったし、いろんなことを学んだ。本当に感謝している。「全住人の幸せを願いながらテラスハウスを見ています」というつもりでいるけれど、そうやって僕が応援し、(視聴することで)支援していた番組の影響によってその住人が最大限傷ついた。そういう意味で「自分も共犯なのだ」という罪悪感を抱かずにはいられない。

 もう一つ重たく残っているのは、自殺の可能性を聞いた瞬間、その経緯に察しがついたことである。つまり、僕は無意識に「彼女に今そういうことが起きてもおかしくない」と思っていた。にも関わらず、具体的な警戒はなにもしていなかったことに対する後悔みたいなものがある。もちろん本人と無縁の僕には何もできないのだけれど、「そういうことが起きてもおかしくない」と思いながらヘラヘラ番組を見ていた自分の残酷さを自覚せざるを得ない。

 

 「表に出てる人」を見て「何かを思うこと」に罪悪感を抱いてしまった。正直、こうなってくると、何までならOKなのかわからなくなってくる。考えたことを書いていく。

 

前提

私刑

 僕は「私刑を行ってはいけない」という立場にいる。ルールに準じた罰は厳格に実行すべきであるが、その罰を決定するプロセスは「推定無罪の原則」などに守られた理性的で正当なものであらねばならない。私刑はその内容がいかなるものであっても、それが私刑である限りそこに正当性はない。そういう契約で世界を成り立たせようとしているはずである。

責任と原因

 自転車を盗まれたことに対する「鍵をかけなかったからだ」という意見は「原因」を正しく指摘している。それが「一因」であることを否定できないし、そういう意味で被害者側にも原因はある。しかし、それは被害者も「責任」を負うべきという結論は導かない。

 性被害に対する「誘うような服装をしていたからだ」という意見は「原因」を正しく指摘しうる。それが「一因」であることを否定できないし、そういう意味で被害者側にも原因はある。しかし、それは被害者も「責任」を負うべきという結論は導かない。

鉾と盾

 人を傷つける鉾と、鉾から身を守るための盾があったとき、加害者である鉾に罪を負う責任があるとしても、それは盾をおろそかにしていいということにはならない。取り返しのつかない傷の発生を防ぐためには、鉾を届かないようにすることだけでなく、盾を強化することも考えなければならない。どちらに責任があるのかとは無関係に、鉾と盾、両側から原因を絶たねばならない。他人を変えることはむずかしい。

 

鉾対策

攻撃的な人

 世の中に「人を攻撃したい人」というのはある程度いる。常にそうであるという人もいれば、時々そういう気分になる程度の人もいる。何かしら切実な事情がある人もいれば、快楽目的の人もいるのかもしれない。なんにせよ、僕はその攻撃性を否定しない。別に攻撃性を持つこと自体には問題はない。攻撃が届いたときにはじめて問題となる。みんなが幸せになれる世界であるためには攻撃が誰にも刺さらないようにする必要があるが、一方で「攻撃的な人」を否定することはその人たちに対する攻撃である。僕はそれはしない。その人はその人でいていいし、どんな人であれその人なりの幸せを追求する権利を持っている。ゾーニングをしっかりしないといけないてきな話である。

攻撃性の分類

 視聴者のアクションを攻撃性によって4つのレベルに分ける。

  1. 内輪で発信する(友人と話す、鍵垢で書くなど)
  2. 攻撃対象が見に来たら見える形で発信する(ツイートする、掲示板に書く)
  3. 攻撃対象に届ける形で発信する(本人にリプライやコメントする、直接言う)
  4. 物理攻撃する

 3から格段に攻撃性が上がるように思う。

プラットフォーム

 「炎上」という言葉が市民権を得たのは最近だと思う。「叩く」のは私刑なので、その制裁にどんな社会的意義があろうと不当なものである。その炎上による攻撃の質が、プラットフォームの変化によって変わったことは無視できない。

 ネットの発達による変化の第一段階は2chなどから連想されるような1→2の変化であった。それが、Twitterやインスタグラムによって3に変化した。攻撃が直接本人に投げつけられるようになったのである。この構造をなくす必要があると思う。最近Twitterには特定の人からしかリプライできないようにする機能が付いたようであるが、こういう機能を高めるしかない。攻撃手段をなくす必要がある。

  Amazon食べログなどのレビュー文化発達も大きな意味があると思う。口コミが力を持ちすぎた。

お墨付き

 番組の構造上、視聴者は出演者を批評することを肯定されている。そういう番組であるし、スタジオメンバーは公認の元に温かいことを言ったり厳しいことを言ったりしてお手本を見せてくれる。そうやって番組は「意見を発信すること」に対してお墨付きを与えていた。

 また、番組の中では住人が視聴者からのコメントを読んでダメージを受けたり、それによって人生を考え直す場面が出てくる。そういう意味である時期からこれは視聴者参加型の番組になっていたと思う。そうやって「コメントが効く」構造になっていたことは、住人に直接意見を投げつけることを促進していたかもしれない。

 番組構成の工夫によっては何割かの目を覚ますことはできたかもしれない。

 

盾の強化

やらなければいい

 やりたいことの実現のためにはSNSで活動する必要がある人もいる。別に何の生産性のない趣味でもいい。楽しそうなことを気軽に楽しめる世の中であってほしいものである。「耐性がないならSNSをやらなければいい」というのは、そうした手段や楽しみを犠牲にすることで初めて成立する。鉾が届く世界において「身を守るためにはやめるしかない」というのは正しいアドバイスになりうると思う。しかし、そうした犠牲を要求する世界は生きづらい。

耐性

 「有名人なのに耐性がないのがいけない」というような意見があるかもしれない。その耐性は個人の資質や対策によって得られるものなのかもしれないが、それを持っていない人間が望んだだけでそう簡単に身につくようなものではない。それは本来ちょっとずつ時間をかけて身に着けるものなのかもしれない。通常、有名人というのはそれなりの期間をかけ、段階を踏んで、生き残った人たちがプロとしてなるものなのかもしれない。一方で、この番組では出演した瞬間に一気に有名人となる。耐性を身に着けるには期間が短すぎる。

 また、これは「仕事の仮面」をしてない状態を晒す番組である。仮面という盾は使えない。直接本体に攻撃が刺さるのである。なんなら台本があった方が「台本のせい」にできるのでよっぽどマシである。

 出演前、出演中、出演後の全ての段階において、平均的に必要なものよりもはるかに手厚くケアする必要があるのだと思う。

 

何まで許されるのか

 テラスハウスという番組は、リアリティーショーであり、露骨にそういう番組だった。それは出演者にとっても、視聴者にとっても、いいこともあればよくないこともある。そう簡単に何かをジャッジできるようなものではないと思う。テラスハウスを見て自殺を踏みとどまった人だっていると思う。

 この問題はリアリティーショーに限ったこととは思えない。他の番組、ひいてはメディアというものは、そこに出てきた人物に対して何かしらの意見を発生させるものだからである。下記ツイートが印象的だった。

 他にも、例えば街角でインタビューされた際の映像がフリー素材化して顔が有名になることだってある。メディアの系統によらず、表に出るということは何かしらの矛先になるリスクをはらむ。「リアリティショーは構造に問題がある」と断罪するのは簡単だけれど、バラエティー番組にしろ、ニュース番組にしろ、程度の差はあれ同じ危険性を含む。リアリティーショーはだめでドキュメントはよいのか? どこまでなら許されるのだろうか。何なら素直に応援してよいのだろうか。どんなSNSであれば素直に利用していいのだろうか。

 

選択肢

 僕が取りうる選択肢を4つ考えた。

  1. 少なくとも自分は攻撃性レベル1以下のことしかしない
  2. 少なくとも自分は攻撃性レベル2以下のことしかしない
  3. 攻撃性レベル2以下のことしかできない媒体のみを使う
  4. 人に対して何か思うことをやめる

結局、僕は差し引き考えて、今まで通り2つ目か、もう少し気持ちを新たにして1つ目かでやっていくんだと思う。世界がディストピアになっても、自分が影響できる範囲の小さな世界だけは守りたいと思う。