イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

強制染髪(ざわ)

 パンテーンのCM、西野藍さんの卒業アルバムの話題や強制染髪によって不登校になった高校生の裁判から、自毛証明書や強制染髪の話が注目を浴びている。強制染髪のなにが問題でなにがつらいのだろうか。もし当時の自分が強制染髪されていたら、どう感じたか考えてみる。


 私は生まれつきの茶髪である。両親が日本人であるにも関わらず。かなりのレアケースだと思う。ちなみに、私は自毛証明書を提出したことも、強制先発されたこともない。代わりに進学時に親や進学前の学校が、進学先の学校に染髪していない旨を伝えてくれていたらしい。


 黒髪の人、特にファッション意識が高い黒髪の人が、茶髪の人に、「羨ましい」ということがよくある。でも、基本的に茶髪の人は、その他人と違う髪色にコンプレックスを抱いている、もしくは抱いていたと思う。小学校や中学校で、髪色をネタにからかわれた経験があることが多いだろうから。子供は本当に間違い探しが上手で残酷な性格を持ってる。


 ここで一つ疑問が生じる。なぜ、黒色でないことが苦痛であるなら、黒色に髪を染めないのかという疑問である。黒髪に染めてしまえば、髪色をいじられることはなくなる。真っ当な疑問だし、黒色に染めることは有効な対処法だと思う。当時の自分も髪色を染めようと考えたことがある。しかし、強い拒否感があった。今思えば、当時の自分にとって茶髪はコンプレックスであった一方でアイデンティティにもなっていた。


 アイデンティティは自分と他人を区別するものと言うことができるだろう。まさに小中学生の頃に自分と他人を区別するのは茶髪だった。茶髪のせいで、からかわれたり、注目されたり、仲間外れにされたりと、明確に他人からの区別するシグナルとして機能していた。否応なしに自分の髪色が他人と違う事を意識させられる。

 

 アイデンティティというのは良い意味で持て囃されることが多い。しかし、それは自分で選択したものであればだと思う。この茶髪というアイデンティティは自分で用意したものではなく、他人に用意されている。他人による自分の定義。「あなたとは茶髪である」。小中学生の頃は、親や社会の保護下にあり、行動や所属するコミュニティによる自己表現が難しい。自分からもアイデンティティとして茶髪を採用してしまう。「私とは茶髪である」。

 

 この定義の後にその茶髪を、学校という公権力が執り行う染髪により否定される。「あなたとは茶髪である。茶髪は矯正されるべきである。あなたは矯正されるべきである」。他人にアイデンティティを用意され他人にアイデンティティを否定される。自分が何者かを他人に定義され、それを公権力によって正式に否定される。もし、矯正染髪されていたら、自分に深い傷が残っただろうなと思う。それに、社会に対する不信感を強く持っただろうなと思う。自分で選んだものでない茶髪によって、自分が罰せられる。自分をからかう他人や、茶髪を異端視する他人ではなく私を。子供の自分には強い理不尽だったろうなと思う。強制染髪されて不登校になるのはわかる気がする。

 

 コンプレックスはアイデンティティ化される。そして、半ば他人に押し付けられたアイデンティティを公権力に否定されるため、自分には対処ができない。避けようのない理不尽。公権力である学校が自分守るどころか壊しにくる。本当に強い痛みだったろうなと思う。

 

 p.s. 自毛証明書は黒髪の子の染髪禁止の校則と自毛が茶髪の子が折り合える点であるのかなと思ってます。(染髪禁止の校則が妥当とは思っていない。ただ、染髪してる子ほど荒れてる傾向があって、そういう子がトラブルに巻き込まれやすい傾向もなんとなくある気がするので染髪禁止の校則も理解はできる(統計的な事実を見た事ないので私の印象論です。))