ドストエフスキー『罪と罰』 紹介&感想
どうも、たけです。ドストエフスキーの傑作長編小説『罪と罰』の紹介&感想です。先日の『カラマーゾフの兄弟』の紹介記事の続編のつもりで書きます。shogakuyonensei.hatenadiary.com
前回ちょっと不完全燃焼だったので、今回はもう少しちゃんと感想を書こうと思います。この記事の前半がネタバレを含まない紹介編で、後半がネタバレを含む感想編になります。
紹介編
はじめに
本作のあらすじですが、僕的には上巻の背表紙に書いてあるようなことはネタバレだと思っているので、どうせなら読まずにいてほしい気持ちがあります。少なくとも冒頭で知らされる内容ではありませんし。
『カラマーゾフの兄弟』の記事で述べたように、僕が読んだ上記の写真の亀山郁夫訳(光文社古典新約文庫)は誤訳の指摘があるようなので、よくないかもしれません。と言いつつ、原書と比較することなく読んでる分には不満はありませんでした。
それでは、オススメポイントを挙げていきます。
サスペンスとして - 思想に迫る -
(『カラマーゾフの兄弟』の感想に同じことを書きましたが)「ドフトエフスキー」「ロシア文学」と聞くと何やら重厚そうなイメージがあり、重苦しい話が延々続くのかなと想像していましたが、『罪と罰』にしろ『カラマーゾフの兄弟』にしろ、単純にサスペンスとしてめちゃくちゃおもしろいです。見せるところは見せるが隠すところは隠し、最後までどうなるかわからないハラハラドキドキの展開が続きます。
また、群像劇みが強かった『カラマーゾフの兄弟』に比べて、『罪と罰』ではより主人公を中心にフォーカスされていました。先に出来事があり、後から「なぜそうなったのか」が明らかにされていくのはサスペンスとして王道のおもしろさです。例えば「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」では先に犯人が分かった状態でその「手口」を解き明かしていくシステムの推理サスペンスでしたが、『罪と罰』では「思想」が解き明かされていきます。
とにかくよくしゃべる - 対決 -
漫画「デスノート」で夜神月とLがテニスをしながら腹の探り合いをしているシーンが印象に残っています。「なんかよくわからんけどめちゃくちゃ高度な駆け引きしとる~~~」というような興奮がありました。『罪と罰』ではそれのもっとすごいやつが続々と巻き起こります。頭脳的というよりはもっと感情的なものですが、駆け引きだけでなく思想、魂のぶつかり合いとも言えるような迫真の対決がかなりおもしろくてしびれます。とにかくドフトエフスキーの登場人物たちはめちゃくちゃよくしゃべるので、僕にはそれがたまりません。特にこういった「対決」では会話の中での登場人物たちの精神状態や心情の機微が眼に浮かぶように描かれていて見事です。
『カラマーゾフの兄弟』との比較
『罪と罰』、第一にエンタメ・サスペンスとして非常におもしろい。総合的な印象ではどちらかというと『カラマーゾフの兄弟』よりもこちらの方が読みやすかったです。話が一本筋だったからといいますか、登場人物が少ない分だけわかりやすいという感じでしょうか。とはいえ『カラマーゾフの兄弟』とどちらがおすすめかと言われれば決めかねます。わりと全体的なノリは同じようなところがありつつ、もちろんどちらにもそれぞれの魅力がありますから。強いて言うなれば『カラマーゾフ』の方が宗教的な思想により注目し、『罪と罰』の方が哲学的な思想により注目していたような気がします。
評価
評価は☆5.0!ドストエフスキーすごい!
感想編
※以下、ネタバレを含みます
理想と現実
本作は主人公ラスコーリニコフが自身の思想を誇示しようとする話でした。その思想というのは要するに功利主義的なものであって、当時のロシア的にどうだったのかはわかりませんが特に目新しいものではないと感じました(それはそれとして、『相対主義の極北』の記事に書いたように僕はある思想を持った人物がそれを駆使している様子を見たい人なので本作はどストライクでした。)そういった思想、つまりラスコーリニコフがどのような考えでなぜ人殺しをしたのか、に迫ることがこの物語の主軸の一つです。ですが、やはりこれは奇抜な思想を持った一部の特殊な人間のお話というわけではないのでしょう。「英雄は何をしても赦される」といった考えを持った主人公が「自分は英雄ではなかった」という現実に直面することで苦悩するというのは、理想と現実、理性と感性、頭と心、の折り合いをつける、という多くの人が共感しうる広いテーマだと思います。ラスコーリニコフの場合、最後まで思想の間違いを認めることはありませんが、それを自分には実践できなかった、自分はその器ではなかったという現実と向き合う苦悩と成長の物語でした。
割引券、あるいは煙草を吸う中学生
ラスコーリニコフの犯行の特徴は、老婆を殺して大金を得ることが目的ではなく、自身の思想を実証することが目的であることです。彼が困窮していたのはたしかですし、妹の望ましくない縁談という後押しもありましたが、それでもやはり強盗殺人よりも関心があったのは思想の誇示でしょう。それは犯罪を目的とした犯罪であり、「殺さずに盗む手段」があったとしても「殺さずにはいられない」のではないかとも思えます。「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という考えを持ったが故に、その権利を行使せずにはいられなくなっただけのこととも思えてきます。割引券を持っていると、普段行かない店であっても行かなきゃ損する気分になってどうにも行かずには済まされなくなるような。
また、そうした思想を持った主人公が自己の飛躍のために犯罪を犯すことを躊躇うというのは、自身が凡人であることを認めることの表明、あるいは非凡人ではあっても自身の論を信じていないことの表明になってしまいます。そのため、彼の犯行動機には「自身の立場の表明」というものが大きくあるわけです。それは、あえて陳腐な例と並べれば、自分が不良でやってくことを表明するために中学生が煙草を吸ってみるのと同じようなものでしょう。
あるいは単に自己顕示欲があります。「自分だけが知っていること」を誇示する人がTwitterには溢れていますし、自分にもそういうところがあってわざわざこんなブログをしていることを思い出します。あえてこういう見方をしてみて、それが知っている感情が増幅されたものかもしれないと思うと、なにかのきっかけで自分だってやりかねないな、という気持ちになってきます。「魔が差す」というのは恐ろしいですから。
ポルフィーリィとの対決
紹介編で「対決」がおもしろかったという話を書きましたが、特にラスコーリニコフとポルフィーリィの対決は毎度もう尋常じゃなくしびれました。無呼吸で一気に読み干しましたとも。思想だなんだのに関する感想はあとからごちゃごちゃ考えはしますが、なんといっても強烈にここの圧倒的なおもしろさが印象的でした。
非凡人
ラスコーリニコフの思い描く非凡人というのが「英雄タイプ」だとして(ナポレオンの名を挙げていました)、その彼に「聖者タイプ」である非凡人の老婆の妹や最後パートナーとなったソーニャが作用していく様子はしびれました。屈服したとも言えます。そういやラスコーリニコフがソーニャに聖書の一説を読ませるシーン(僕はこれも上記の「対決」の一つと捉えています)も名場面でした。たまりませんでしたな。