イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その4 - マタイによる福音書 16-19章

 どうも、たけです。マタイによる福音書の4回目、今回は16-19章について。

  

 

人の子

エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリヤだ』という人もいます。」イエスが言われた。それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。(16:13-16)

それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。(16:20)

 

 「人の子」というのはなんでしょうか。この称号はイエスが自身に対して用いるもので、メシア性を含んだ概念のようです。この概念を掴むことはキリストを理解するためにかなり重要なことだと思うので、今後も「人の子」というのには注意して読んでいきたいです。さっと検索して出てくる下記のページをざっくり見ていると、「人の子」というのが単にメシアを指すわけではないようです。他の福音書を読んだ上で改めに向き合おうと思います。

神の国の中核的存在である「人の子」の概念 - 牧師の書斎

 

エス、死と復活を予告する

このときから、イエスは、御自身が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明けられ始めた。(16:21)

  マタイによる福音書は、ここからイエスの死と復活に向けて舵を切り始めます。また、この文のあとは次のように続きます。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(16:22-23)

 しびれるぜ...。神の次元で考えなければ。

 さて、この主題とは関係ないのですが、この「サタン、引き下がれ」という表現に少しひっかかるものがあります。例えば魔女狩り的思考として、自分の気に食わない相手に対して「さてはお前は魔女だな?」という考え方で納得する人がいると思います。「さては○○人だな」みたいなのは今も散見されますよね。それを踏まえて「サタン、引き下がれ」というセリフを見ると、これは下手な人が使うと魔女狩りに繋がりそうだなという不安も抱きました。その一方で、その人そのものを「悪魔」とみなすのではなく、「悪魔に憑りつかれる」、そしてそれを「祓う」というような世界観で見れば、「悪いのは憑りついてる悪魔であってその人ではない」という見方もできそうで、これは悪くない気もします。赦しやすいというか。ただ、何かの原因をすべて悪魔で片づける態度は下手に運用すると「さてはお前悪魔だな?」ですべて片付いてしまう危険な思考に陥る気がするのでやはり注意したいです。でも「これは悪魔的思考かもしれない」「この気持ちは悪魔の誘惑によるものか?」という問いを自省に使うことは有用に思えます。

 

エリヤと洗礼者ヨハネ

見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。(17:3)

エスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちはイエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。(17:11-13)

  ここは山の上でイエスが太陽のように輝いたり、霊的な存在のモーセとエリヤと語り合ったりする場面です。神々しいですね。モーセとエリヤは旧約聖書から登場する人物ですのでまだよくわかっていませんが、ここでこの二人が登場するというのはきっと重要な意味があるのだと思います。弟子たちは彼らを見た時に「あ、モーセとエリアやん」と悟れるものなんですかね。

 洗礼者ヨハネは以前から登場していて、イエスからもリスペクトがあったことは書きましたが、彼がエリヤだったということなのでしょうか? この辺りも、エリヤのことを知ってから改めて復習したいと思います。

 

からし種一粒ほどの信仰

弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。あなたがたにできないことは何もない」 (17:19-20)

  「信仰がある=神と通じている」というように考えると、山を動かせることも当然のように思います。ここでおもしろいと思ったのが、「からし種一粒ほどでも信仰が欠けると~できない」ではなく、「からし種一粒ほどの信仰があれば~できる」と書かれていることです。量より質ということでしょうか。「999の信仰の中の1の不信仰」を問題にしているのではなく、「1の信仰」がないことを問題としているのです。信仰に求められる質の高さ、そして言い訳のできなさがここにはあります。常に「自分が信仰しているつもりのこのあり方というのは、まだまだ山を動かせない、つまり信仰とは呼べない程度のものである。」と謙虚に求道することは悪くないように思えます。

 

天の国でいちばん偉い者

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れるものは、わたしを受け入れるのである。」(18:1-5)

弟子たち、なんでそんな俗な質問するねん、とも思いましたが、何を聞いても興味深い答えを返してくれるイエスのすごさ。子供、子供なー。子供はかわいいです。ここでの「子供」というのは何がポイントなのでしょうか。純粋さ、無垢さとかそういうあれなんでしょうか。やはり罪なき存在に思えるところがあります。子供も原罪を背負ってるもんなんですかね。「カラマーゾフの兄弟」でもイワンが子供について語ることろがありますが、僕自身親戚の赤ちゃんを見て以来子供というまぶしい存在についていろいろ思うところがあるので、この話のポイントも気になります。

 

 

兄弟に対する赦し

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(18:21-22)

そしてたとえ話を挟んで、

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないのなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるでろう。(18:35)

 と着地します。質問のレベル、低くないか? 「七の七十倍」は「無限」のニュアンスが使われていると思いますが、現代なら「2兆回」くらい言わないとそういうニュアンスはでないので、数のスケール感の違いが少しおもしろいです。ここでの「兄弟」はもちろん血縁の話ではなく、キリスト教的な兄弟です。

 僕は基本的に「赦すまでもなく赦していく」というスタンスで生きようとしているので、ここは「ですよね~」という感じでした。「赦すまでもなく」というのは、「赦す」というのはあくまで罪に対するものであって、そこに罪があることにした後の話ですが、僕としてはそもそもそこに罪を認めることに傲慢さを感じます。なのでそもそも罪を発生させないでおくくらいの強い赦しスタンスでありたいと思っています。

 みんなそういう態度であれば世の中もっと生きやすくなるんですけどね。炎上が嫌い。

 

離縁について教える

ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生れついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。(19:1-12)

 一節をフルで引用しました。このような話は現代の価値観と照らし合わせて考えられるのでおもしろみがあります。当時の恋愛事情がどんな感じだったのかよくわからないのでなんとも難しいところでもありますが。どの程度自由恋愛な世界だったんでしょうかね。現代的に連想するような「付き合う」の先にある「結婚」であったり、戸籍管理上の結婚の上に、もっと貞操的に重要な意味が乗っていたんでしょうか。「結婚」や「姦通の罪」が持つ意味の重さが変わってきます。

 イエスは原則として離縁は違法であると言っています。ここでの「律法」というのは旧約聖書、あるいは「モーセの律法」のことです。しかし、モーセがそうしたように、どうしてもな時に離縁することは赦している感じなのでしょうか。他の場面では「そんなことをしたら地獄に落ちて業火に焼かれるだろう」くらいの強い否定があることに比べると、それほど強い批判は見られません。

 今っぽい考え方によれば離縁を「罪」とすることに抵抗を感じますが、どうなんでしょうね。「罪は罪として、それを背負って離縁すればいいじゃない」という気もしますし、「それを罪とすることが人を苦しめているんだぞ」とも言えます。まあでもそういった離縁について罪を感じない人というのはそもそも「結婚」に対する重さの設定がそもそも軽く、強く罪を感じる人というのは「結婚」を重く見積もっていると思えば、結局イエスが言う「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」というのもなんとなくわかります。「結婚」についてそうした信仰的な宣誓的な人と人との精神的なつながりに関する成分と、戸籍や社会保障や相続など社会的な利便性に関する成分とがあるとして、ここで話題になっている「結婚」というのが前者に関した話だと思うと、そこに「離縁はよくない」というスパイスがあってこそわざわざそうした契約を結ぶことに意味が出てくるように思います。「付き合う」と同じくらいの軽さで「結婚」する人はその軽さと同じだけ罪も軽いですし、結婚を重くとらえている人はそれだけ離縁の罪も重くなるような、そういうイメージを抱きました。でもこれはもともと僕の価値観がそんな感じなので、それを当てはめているだけかもしれません。悪気がなければいい派なので。

 

永遠の命を得るには

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんないいことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスが言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい』」(19:16-19)

 この後には金持ちもままでは無理、みたいな話に続きます。さて、掟がこんな感じの一文で全て言い表されるというのはアツいですね。こういうところが宗教の強さのように思えます。みんなが敬虔であればこれだけで済むのに。

 どれもシンプルなようで、その本質を理解して深いところで実行しようとすれば、それはかなり難しいもののように思います。「殺すな」を「ナイフで人を刺して殺すな」という意味でとらえる人にとってはそれだけですし、もっと間接的なものや抽象的なところまで意味を広げて「殺すな」と捉える人にとってはもっと多くの意味がそこにあることになります。掟がシンプルなものとして示されているからこそ、その深みを自分で見出した人にとってはしっかりと血肉化することができます。掟が詳細であればあるほど、システマチックになりすぎるというか、「これは書かれてないから」とか「裏をかく」ようなことができてしまいます。そういうことじゃないんですよね。自分で考えていけ。