イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その7 - マタイによる福音書 24-26章

 どうも、たけです。マタイによる福音書の7回目、今回は24-26章について。

  

 

人の子が来る

 終末の話です。

その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(24:29-31)

 なんとなく聞いたことある話ですね。絵でも見たことある気がします。

 

備えていないさい

 ここからは人の子の到来に向けて備えていないさいという話がいろんなたとえで展開されます。

いちじくの木の教え

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(24:32-35)

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」ってなかなかのパンチラインですね。

目を覚ましていなさい

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。(24:36-37)

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろにやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。(24:36-44)

 ストイックですね。気を抜くなと。

悪い僕

しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰ってきて、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(24:48-51)

なんか調子乗った時に限ってちゃんと失敗することがありますが、それを思い出します。ストイックに常に気を引き締めていなさいと。

 

「タラントンのたとえ」

たとえ自体は長いので省略しますが、主人のお金を預かった際に、それで商売をして儲けた人が褒められて、そうしなかった人が怒られお金を取り上げて儲けた方の人に預けられるという話です。こう締めくくられます。

だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。(25:29)

 天の国はそういうものだということです。闇金ウシジマくんが「結局金だ!金がある所に金が集まる。金のねェ奴はとことん搾られ、尊厳まで奪われる。」と言ってましたが、似てますね。

 

 

すべての民族を裁く

 人の子が天使たちを従えて到来するとき、どういうことが行われるかをイエスが説明します。すべての国の民を裁いて良い悪いに分けるそうです。その良い方に対してこういいます。

 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときには飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』(25:34-36)

 それに対して正しい人たちが「いつ主にそんなことしましたっけ?」と言いますが、こう返します。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(25:40) 

  イエスははっきり言いがちです。そして悪い方の人たちにはこの逆のことを言います。「わたしによくしてくれなかった」→「よくしませんでしたっけ?」→「最も小さい者の一人に...」という感じです。「人にやったことは自分に返ってくる」てきな話でもありますし、「神はどこにでもいる」てきな話でもありますね。こういう感覚を持つことは他人にリスペクトを持つためにも大事なように思います。

 

ベタニアで香油を注がれる

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。(26:6-13)

 まず、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」という批判の仕方はSNSでよく見る気がします。それに対して「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」というのがグッときますね。その人なりに良いことをしてんすよね...。それならいいじゃない。

 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」とあります。イエスに献身できるチャンスは限られており、そのときに「高く売って...」などと他の選択肢を計算することなくただそのときできる最大限の献身を行うというのは、感動的ではありますね。

 「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」とあります。イエスはこれが世界中に宣べ伝えられることも知っているんですね。

 あとこのエピソードについて調べて知ったのですが、このご時世ではともに食卓を囲むことの意味がかなり大きかったようです。なのでイエスが罪人や女の人と分け隔てなく食事を共にするのはかなり尖った行動だったようで、そういった寛大さにみんな心打たれたところもあるそうな。

ユダ、裏切りを企てる

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。(26:14-16) 

  ユダ来た!知ってる人が出てくるとテンション上がりますね。「裏切るのはだれか」てきな伏線とか何もなく、いきなり「裏切る人」として出てきました。すがすがしい。

 

過越の食事をする

除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、 「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうち一人がわたしを裏切ろうとしている。」(26:17-21)

  最後の晩餐来た!いよいよですね。思えば宗教画って、二次創作ですね。

 

裏切られ、逮捕される

 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捉えた。(26:47-50)

 ユダの合図がなければ誰がイエスかわからないような感じなんですね。 普通の見た目だ、とは聞いてましたが。敵に囲まれたときのセリフとして「友よ、しようとしていることをするがよい」はかっこよすぎますね。僕も囲まれたときはそう言おうと思います。また、イエスは「もちろんこいつら潰そうと思えば潰せるけど、聖書の予言外すわけにはいかんから」てきなことを言っています。毎日神殿にいたのに、わざわざこんなところに捉えに来たのは、まさしく聖書の予言通りやねとも言っています。このあたりはまだ旧約聖書を知らないのでピンときません。

 ここの最後がかなしいです。

このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。(26:56)

 一人くらい、一人くらい残れよ...。イエスはこれも予言していましたが、かなしい。

 

 この後、イエスは裁判を受けていろいろ有罪&死刑になり、いよいよ磔されます。次回、マタイによる福音書完結編です。