イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その12 - ヨハネによる福音書 17-21章

 どうも、たけです。聖書通読企画、読んでる人いるんですかね。ヨハネによる福音書のラストです。

  

 

永遠の命

 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(17:1-3)

 え、そうなん??なんとなくはわかりますが。霊的な気付きを得ることが非常に重要なのはわかりますし、そういうことなんでしょうか。神とキリストを知ることというのはすなわち霊的に目覚める(悟る?)ということであり、それが天の国への入り口ということでしょうか。

エスの死

 わりと飛びますが、イエスが裁判にかけられて、ピエトがわりとかばったにもかかわらず民衆の圧で磔になり、死にます。

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取るとイ「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(19:28-30) 

 「マタイによる福音書」ではこのあたりはもっといろいろあったと思うのですが、「ヨハネによる福音書」ではかなりあっさりでした。一緒に磔にされている罪人とのやりとりもありませんし、イエスが死ぬ前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだくだりもありません。イエスの死に伴って様々な超常現象が起きたことも書かれいません。さては、マタイ、盛ったのか???

復活

マタイによる福音書でもそうでしたが、イエスの復活というのは、書かれている内容だけでは、誰かがイエスの墓を暴いたのか、イエスが復活したのか、どちらとも決定できないというのがあります。それが魅力でもありますね。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去れられました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた場所に丸めてあった。 (20:1-7)

 マタイ~ではもう少しいろいろ書いてありましたね。なんとなくですが、ヨハネ~の方が素朴に思えてきました。まじでイエスにの栄光にやられちゃってる感じがします。マタイはイエスの教えを広めることにもっと神経を使っているように思います。それぞれですね。

 

本書の目的

 ヨハネによる福音書には「本書の目的」というアツいタイトルの章があります。

 このはかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:30-31) 

  これが最終章ではなく最終章のちょい手前に書かれているというのはよくわかりませんが。その10において、ヨハネ~では「奇跡による信仰」を認めているのではということを書きましたが、この文章を見るとそうでもない気もしてきますね。しるしを全て書くことは、「信じるため」という目的にそぐわないということなので。

 

 以上、「ヨハネによる福音書」でした。次回からは「使徒言行録」に進みます。