イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

聖書通読企画 その9 - ヨハネによる福音書 1-6章

 どうも、たけです。

 このブログの更新と共に聖書を読むのも止まっていましたが、こちらも再開です。「聖書を読み進める→ブログを書きながら精読」というルーティンで進めています。1年で終わりそうにないですね。まぁ気ままにやってきますよ。

  

 

ヨハネによる福音書の概要

 「第四福音書」に位置づけられるらしい。つまり4つある福音書のうち最後に書かれたものっぽいそうで。一通り読んでみた感想として、先に読んだマタイによる福音書に比べて著者の目線が出ているように感じました。詩的な表現が光っていたり、説教というよりは出来事を通してイエスを描いていたり、ファンがイエスの動向を追った記録のような形相でした。マタイによる福音書ではもっと様々な説教を引用して紹介していたのですが、ヨハネによる福音書では生活面をフューチャーしていたように思います。

 基本的にマタイによる福音書と重複した内容でもあり、2周目の感じもありつつ読みました。しかしながら、大きく違うのはヨハネによる福音書ではスタートがもう洗礼者ヨハネと出会うところで、次の場面ではもうイエスが神殿で暴れています。イエスの出生やそれまでの経緯はすっ飛ばして、神の子としての活動を始めてからの部分に夢中になっています。

 もちろんこのヨハネは洗礼者ヨハネではなく、十二使徒の方のヨハネです。

言が肉となった

 初めに言があった。言は神と共にあった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(1:1-5)

 ヨハネによる福音書の冒頭部分です。非常にうつくしい書き出しだと思います。僕が参考にしているガイド本『1年で聖書を読破する 永遠のベストセラー《完読法》』曰く、ここでの「言」というのはイエス・キリストのことで、イエスが永遠の昔から存在していたことを言おうとしているらしいです。「光があれ」と言を発したことから始まっていますもんね。

 最初はこういう観念的な表現からはじまりますが、以降は普通の文章で進んでいきます。

 三日で建て直してみせる

エスが神殿で大暴れした後のシーンです。

ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は立てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(2:18-22)

 ネタバレがすごいですね。ここの意味をちゃんとわかってなかったので、ここまでストレートに説明してもらって助かりました。自分の体のことだったとは。

新たに生まれなければ

エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。」だれでも水と聖霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くのかを知らない。霊から生まれたものも皆、そのとおりである。」(3:5-8)

 う~ん、、、よくわからん。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」というのはどういうことか。そういうわけでいろいろ調べると、洗礼によって生まれ変わるといういうことっぽいです。そのことかいな。霊的に変化が起きる必要があるということですね。

わたしの父は

そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5:16-17)

  この「わたしの父もそうしてるのでわたしもそうします」という論法、無敵じゃないですか??そうなんだからしかたないんでしょうけど!

わたしが命のパンである

すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、たらしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。(6:32-36) 

 こういうのって、「霊的な意味でのパン」みたいな概念を掴まないとよくわからないんでしょうけど、当時のユダヤ人たちは宗教的な勉強はある程度しているはずで、そういう概念にどの程度親しみがあったんでしょうね。質問が低レベルすぎますが。

 

マタイによる福音書と共通している部分も多いので、こんな感じでさらっと行きたいですね。