イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

ダブルスタンダード批判批判

どうも,たけです。

 

 ダブルスタンダートを批判するときの形式として、

AのときはXしといて,BのときはXしないのかよ

というような形式をよく見ます。

ですが、この発言には暗に

AのときはXすべきだが、BのときはXすべきでない

という考えが含まれているときがあって、その場合にはこの批判は向きが逆になっただけのダブスタになっています。批判しといてね。

 

 筋が通っているかどうか気になる勢としてはダブルスタンダードは引っかかるものの、相対主義者的には一見ダブスタに見えることも実は前提の差によるそれぞれの正しさがあるのかもと思ったり。

 

科学信仰

どうも、たけです。

 

 

 このどこの誰だか知らない人のツイートが、観測範囲の理系研究者界隈にちやほやされいて、よく思うもやもやが再燃したのでその話をします。

 

 上記のツイートにあるような話は、私は神を信仰しているのではなく科学を信仰しています、というだけの話です。そこに自覚がないのはださい。「未知の現象にであったとき、神の新しい可能性を感じる」と思うか、「科学の新しい可能性を感じる」と思うかだけの違いであって、どちらもそれぞれの信仰対象に説明を求めているだけで本質は変わらない。

 

 科学的正しさと言うのは、「こういうのを科学的に正しいということにしましょう」と決めた人たちが「これは科学的に正しいですね」とコミュニティの中で承認しあっているだけのことである。

 「科学」は別に「学術」「芸術」に置き換えてもいい。学術的正しさを定義した人たちが「これは実に学術的である」とほめる感じや、芸術的良さを定義した人たちが「これは実に芸術的である」と評価する感じの、自作自演のオナニー感よ。「ロックだね」とか「HIP HOPだね」なんかはその特殊性に自覚がある雰囲気があるのですっと受け入れられますが、「科学的正しさ」や「学術的正しさ」についてはそれらが絶対的に正しいことであるかのように認識している人が多いように思う。信仰ですよ、それ。

 

 とはいえ、僕は別にアンチ科学とか、疑似科学最高とか、自然療法万歳的なノリは全くないし、むしろ論理にひれ伏しているので学術とか科学寄りの考え方をしている。それに神ではなく科学にロマンを感じた人が科学を信仰するのは当然のことであり、存分に信仰していってほしい。

 ここで何が言いたいかと言うと、科学的正しさを信じるということは、本質的に科学信仰なのだから、科学信仰として伸ばしていった方がいいのでは?ということ。科学信仰なのに、科学信仰じゃないふりしていろいろやってこうとすると無理が生じる。

 科学研究費が削られてるとか、一部分野が「役に立たない研究」として予算が削られる話などをよく聞く。まず「この分野だってこういう風に間接的に役に立ってます」というような反論はやめた方がいいと思う。生産性バトルの土俵に持ち込んでしまうと勝機が薄い。そうじゃなくて、科学神の威光によって価値を高めた方がいいのではないか。

 

 「学術の発展への取り組みというのは人類にとって高尚な営みである。だからお金を使うべきである。」

 これでなんとかなりませんかね。

 

卑屈とナルシズム

 どうも、たけです。

 たまに卑屈な人がいますが、卑屈はナルシズムやぞ!という話です。僕は自分のナルシズムを殺す活動にずっと取り組んでいる(邪魔だから)ので、そういうのが過剰に気になります。ごめんなさい。

 

 そもそも「ナルシスト」というのは自己陶酔的な人のことを指すと思いますが、僕にとって「自己陶酔」の基準が「自分に対する評価が(神視点での完全な)客観視によるものと異なる」というような甘いものなので、程度の差はあれどだいたいみんなナルシストです。今回書く「卑屈な人」というのは、その評価のずれの程度が大きいので、ナルシストっぷりも大きいというところがポイントです。

 

 卑屈な人も多様だとは思いますが、ある典型として「私のことなど気になさらずに、どうかみなさまのことを優先してください」というタイプの人がいます。こういう人は、ナルシストです。あたかも自分を卑下して他人を高く見積もって自分のことは考慮するに値しないかのようにふるまうのですが、その行為は他人の都合よりも「自分を卑下したい」という自分の都合を最優先にしていて、自分本位なことが多いように思います。建前と実際がまったく逆やないか! 自分の価値を低く見積もるなら、場の最善に尽くさないと。めちゃめちゃ自分のことよしよしするやん、と思っちゃいます。

 厳しめな例を出せば、「何食べたい?」と聞かれて「(私の意思に価値なんてないので)なんでもいいよ」と答えるのとかもそういう感じです。

 

 なんか普通に悪口でしたね。以上

スターウォーズ エピソード789 感想

 どうも、たけです。スターウォーズのエピソード789を見ました。78はレンタルしてみて、9は劇場で。以前書きましたが最近456123を見たので、せっかくだから劇場で見ました。以下の記事は愚痴に近い、かなりざっくばらんな感想です(さっきEP. 9を見てきた現在)。

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com

 

 7は意外とおもしろかったけど歴代のレジェンド登場のアツさによるものが大きく、8はストレスが多いし味方がポンコツすぎたけど、従来のスターウォーズからの逸脱を計ってるとすればいいかもしれないと思いつつ、9でなんやそれ、という感じ。以降は全体についてざっくり書きます。

 123の流れがおもしろくて、スターウォーズ全体に対してはポジティブな印象を抱いていました。ツッコミどころはたくさんありつつも、サーガとして全体はおもしろい。そしてライトセーバーがかっこいい。たまに出てくるフォースの地味な能力が渋くてかっこいい、という。

 789を見るにあたって、ジョージ・ルーカスじゃなくなり製作陣に大きな変更があることから「スピンオフ」として見る気でいて、結果的にも「これはスピンオフ(なんなら二次創作)ということにしよう」という感じになりました。「ファンの期待(予想)」みたいなものに応えつつ、裏切りつつ、イムズは守りつつ、インフレしつつ、というような、揺さぶられる感じでした。結果、もやもやが強い。スターウォーズでありながら普通のアクション映画的な枠組みに吸収されていった感じ。きれいにお利口に伏線を回収していって、さ。オマージュもりもりでノスタルジーを刺激しつつ。

 SFとしての魅力に頼れなくなり、かつ123のように「ダースベイダーの誕生」というという巨大なテーマを持っているわけでもない中で、「普通の映画」になったなーという印象です。123はライトセーバー振り回しまくりのアクションシーンがよかったのですが、789ではそこのレベルも落ちてました。SF的スターウォーズ的イムズの力が弱まって、「魔法」に頼ることになってる。フォースがインフレしてる!マーベル映画やないんやから。

 

 ちょいちょい、ドラゴンボールの魔人ブー編を読んでるときと同じ感情になりました。そうなってくんですね。

以上!

「パラサイト 半地下の家族」感想

 どうも、たけです。カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した話題の映画「パラサイト 半地下の家族」を見てきました。その感想です。

 

全体的に

 かなりおもしろかったです。めちゃくちゃ完成度の高いエンタメ映画だと思いました。エンタメ成分の五角形がコーンフレークの栄養素のそれくらい大きかったです。コメディ、サスペンス、社会、家族、ホラーなど、いろんな要素をよくもまあこれだけバランス良くまとめたなと。ところどころで社会問題っぽいことを描きつつ、全体としてはごりごりのエンタメどたばた劇で、最初から最後までずっとおもしろかったです。コミカルな場面でもどこかシリアス(不穏)で、シリアスな場面でもどこかコミカル。全体的にわかりやすくて、わかりやすいからこそ「この感じね」と身構えていたところをさらに超えてくる感じに、グッときました。

 

以下、見た人向けのネタバレ感想です。

 

半地下

 「半地下」というのは大きなキーワードで、これが絶妙でしたね。半地下の哀愁みたいなものに慣れてきたところで「全地下」が登場してめちゃめちゃやばいやつらだったときはしびれました。半地下というのは日光が入ってきます。だから主人公一家は上を目指してしまうし、上流階級との差に食らいもする。一方で、全地下夫婦は完全に地下になじんでいて、地上の人たちに対する目線は天上人に対する崇拝であり、贅沢を望まずつつましく地下に落ち着いています。中途半端に日光が入ること、これが半地下の残酷さであり、それらを「洪水」という半地下に刺さる災害でも示したのはあっぱれです。全地下にまでなると核シェルターなので対災害では絶対安全というのも皮肉ですね(しかし食糧は完全パラサイト)。

 

あくまでエンタメ

 全体的に、めちゃめちゃエンタメだな~と思いました。なんというか、主人公家族は4人ともそれなりに能力が高いんですよね。悪知恵が働いて、器用に連携していろんなことをこなしてる。ところどころでお父さんがポンコツな感じは出しつつも、結局は高級運転手の役をギリ成立させられるくらいには器用だし。その能力があれば普通に仕事できるやろ、と。そういうところであまり同情心がわかないというか、だからこそ「におい」というキーワードによって地下っぷりを示しているところがある(能力面での地下っぷりに説得力がない)。自覚のないにおいというのは残酷だなと思いつつ、引っ越したら消えそうやなとも思いつつ。

 一方で、結果的に彼らは「計画」の部分には問題があったということになりました。演技の練習したり入念に準備して成功してたあれはなんやってん、というような無鉄砲さ。こういう展開というか、この失敗の流れは「調子に乗って、案の定失敗する」というもので、これは型としては「のび太」的な失敗であって、実に王道でした。「調子に乗ってないのに失敗する」というストーリーの方がよっぽどしんどい。そう思って上流、半地下、全地下の三世帯を見ると、上流と全地下は相応に現状維持的な生活を営んでいて、それを半地下家族に破壊されました。彼らからすればすさまじく理不尽な悲劇ですね。半地下家族の加害がすごいです。まぁ、それも「半地下から抜け出そうとするとそういうことになるんだぞ!(だから相応の生き方をしておけ!)」てきな理を描いているのだと捉えれば切なさがありますが。

 

良い人たち

 本作品では明確な悪人がいないというか、金持ち側の人たちも絶妙に良い人だったように思います。「金持ちだからやさしい」というセリフは印象的だったものの、ノリ全体がシンプルなルサンチマンというわけではなかったですね。また、どういうわけか家族の絆が絶対的でゆるがないところにはほっこりしました。そういうところもストレスなく見れるポイントだったように思います。

 一方で、妹は完全にすれきっていてエゴイストで、「わたしたちのことだけ心配してよ」というセリフにもあったように、他人を思いやる余裕がありません。遠慮がなく独尊的だから、邸宅のお風呂を優雅に使いこなせる。彼女が最後に死んでしまったのはそういう因果から来るものがあるんですかね。いいキャラだったので悲しかったです。

  

おわり

 ポイントを絞って感想を書きました。完成度が高くて、印象的なシーンやセリフも多く、細かいところまで気を遣われている。とてもよくできた映画でおもしろかったです。金持ちの弟の方、モールス信号解読しといてなんもせんのかい!(こういう予想の裏切り方がいい塩梅である)

 

ツイート

どうも、たけです。自分の最近のSNS活動について。

 

基本的にTwitterがメインであるが、そこでやることというのはシンプルに、インプットと、アウトプットである。

インプットに関しては、広くフォローしておけば予期せぬ情報が入って来るというのは、「雑誌性」と呼んでいるが、良い情報源である。ググるという行為では狙った情報だけしか得られないが、ツイッターでは期待していない情報も入ってくるし、それが見識を広げてくれる。

アウトプットに関しては、文章化するにあたってある程度考えをまとめられることと、そのとき考えたことをアーカイブできることが良さである。

 

少し前まではTwitterのアカウントを二つ運用していた。

一つはプライベート用と言うか、鍵垢で、友人や同級生たちと繋がっていて気ままに気が向いたことをつぶやいていた。変なテンションでツイートして翌朝に消す感じことも多かった。

もう一つのアカウントは本名の公開アカウントで、仕事関係がメインと言うか、いい子ぶった対外的なものである。フォロワーを増やしたい気持ちはありつつ、自意識のせいであまりつぶやけていない。「やったこと」を淡々と書くことはできるが、自意識によって、それ以外の思想や自分の専門性から外れたことをツイートできない。フォロワーを増やしたい気持ちがあるのでもっと気楽にツイートしたい(基本的にツイート数が多ければフォロワーは増えるはず)。フォロワーを増やしたいのは、宣伝力が高くなるからである。火種は大きい方がいい。

 

 今は後者の本名アカウントだけを見ている。インプットに関しては、正直、「知り合い」の元気なツイートを見ることに虚しさがあるので、本名のアカウントだけ見ることにした。アウトプットに関しては、鍵垢でしかつぶやけないようなことは、八つ当たりみたいなものでしかなく、そもそもつぶやく必要がない。

 しかし、それはそれで、自分の考えたことが何も残らずに、泡のように消えていくことには寂しさがある。そこで、このブログをもっと活用すべきである。今までツイートしていたようなことは、このブログにどんどん書いていきたい。自己顕示欲をそうやって活用していくべきである。ツイートしたい欲をどんどんとここにぶつけていく。そうすれば、多少は刹那性から逃れられる気がする。残るので。この記事は、その第一歩である。まとまってなくても、書く。ひとまず、日記性を高めていく所存。

最善と受容

ざわです.

 

最近,予期しない場面で自分のブログを強制的に振り返ることになった.過去に自分がそんなことを考えていたのかと驚くとともに,過去の自分が直面していた不安が解消されていることに気が付いた.そのことについて書き記そうと思う.内容は自己と母の受容と,博士課程の不安の解消である.

 

私は小学生ぐらいのころから自己否定と共に成長してきた.自分が無価値であると思い込みながら生きてきた.この自己否定は親によって刷り込まれたものである.私は幼少期,身体の機能の一つが発育不良だった.自分にはどうしようもなく,その発育不良によって毎日失敗していた.そのたびに両親,特にヒステリックな母親から怒られていた.「なんで○○はこれが出来ないの!」と良く叱責された.友達は発育が正常で私と同じ失敗を犯していないことを知っていたので,自分だけがひどく劣った存在に感じられた.私以外の家族が私がいないところで,「なぜ○○(私の名前)はあんなにダメな子なんだろうか?このままで大丈夫だろうか?」と家族会議をしている場面に出くわしてしまったこともある.自分を「失敗作」だと自嘲していた.自分を無価値に感じた.自分を無価値に感じているので,他人も私のことを無価値だと思っていると勝手に思い込んでいた.他人の目をひどく気にしてしまうので外出が好きじゃなかった.自分のことを無価値だと思っている人間は基本的に挑戦に対しておっくうになる.特に客観的な指標のないこと,美術などの自己表現に対しておっくうになる.なので美術の授業の創作では,幾何学模様を敷き詰めることで自分の内面を問えないような作品ばかり作っていた.理系科目は正解が用意されてたので好きだった.自分を問わなくて済む.ここまでが小学生までの話.友達がそれなりにいて楽しかったけどまあまあ苦しかった.

中学になって身体が成長して毎日犯していた失敗を犯さなくなったことと,勉強の成績が重要になってきたことで自己否定が緩和され始めた.私は勉強はよくできた.(勉強ができなかったら自分は自己否定から脱却できたのか疑問に思うことがある.)中高でいい友達を持ったことで,他人が私を悪く思っているという思い込みも緩和されてきた.いろいろな面で自己否定の束縛から解放された一方で母親に対する怒りが芽生えてきた.「なぜ私はそこまで劣った人間ではないのに,ここまで徹底的に自己を否定しながら生きてきたのか.母だ.母のせいだ.私にはどうしようもない発育不良が引き起こす失敗を,こっぴどく叱ったからだ.ここまで強い自己否定に苛まれていなかったら,もっと色々なことに挑戦できただろうし,人生も楽しかっただろうに!俺は俺の人生を失った.」というふうに母に対して怒りを抱えていた.高校生ぐらいから大学院生まで私の母がもっと良い母なら自分の人生はもっとよかっただろうなと,母の未熟さによって失われた自分の人生を嘆いていた.もはや私は最善の人生でないし,最善でない人生に価値を感じれなかった.最善でない自己も母も受け入れられなかった.満月だけしか愛でることが出来なかった.

最善の人生を送りたい自分にとって博士課程への進学は恐怖だった.博士課程に関するネガティブな物語がたくさんある.博士進学によって未来が閉ざられた人がたくさんいるらしい.自分のそのうちの一人になるのが怖かった.ここで就職を選べば比較的幸せが保証されている気がした.でも勉強,というより学問は相変わらず好きだったから進学するしかなかった.まだ学問がやりたいと思っているのに就職するのは単なる撤退だし,まだ撤退は始めたくなかった.それに最近では,博士を取った後に本当にアカデミックに残るのか民間企業に就職するのを選ぶこともできると聞いた.覚悟半分,保留半分の博士進学だった.

年月が進み,保留していた問題についてまた悩むことになった.博士課程修了後,不安定なアカデミックかへ就職するか,安定(とされている)民間企業へ就職するか.気持ち的にはアカデミックに残っていたい.でも不安定なアカデミックの世界で失敗せずに成功できるだろうかと悩み続ける.不確定な未来について悩んでも答えなど出るはずもないのに....悩む中で自分が本当に恐れていたのは失敗ではなく,失敗を受け入れられない自分であることに気が付いた.時間軸に対して垂直な方向に広がる並行世界で,就職し幸せな生活を送る最善の自分を夢想し,アカデミックへの就職を後悔し続けてしまうのではないかと怖かった.自分にありえた幸福をふんだんに詰め込んだ美しいifの世界のスノードームに耽溺し続け,現実の生活と可能性がどんどん退廃していく人生を送ってしまいそうで怖かった.やはり,あり得る最善を求めてしまっていた.

 

自己否定,母への怒り,博士課程での恐怖.どれも問題の根は同じで最善へ至れないものを受容できないことだった.最善と自分への乖離について悩み続けることでじわじわとその乖離について受け入れれるようになった.特に出来事があったわけでもない.

私の発育不良に対して母も不安であっただろう.悪意から生まれた行為ではなかった.母もただの人なので最善を求めるのは酷である.確かにありえた最善の自分と現在の自分は乖離しているけど,最善との乖離こそが自己や個性を定義するものである.満月の形は常に一つだけど,かけた月は多様であり,それぞれに味がある.未来の選択については,自分がその選択によって得られそうな幸福の計算をある程度できるだけで,選択後はもう後悔してはならない.今の自分のできることは,今これからの人生の幸福を最大化することだけ.ifの世界はどうしようもなく美しいけど,未来への幸福の可能性を優しく手折ってしまう.今日の失敗が必ず明日の失敗を約束するわけではない.と思えるようになってきた.

 

私にも,母にも,たとえ将来アカデミックを選び失敗してしまったとしても, 私の人生にも,それなりに味があるはずなんだ.きっと.