イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

渦 その6

 どうも、たけです。今日は安倍首相のコラボ動画と給付金とテラスハウスの話です。

 

安倍首相のコラボ動画

的外れ

だいたい以下の記事に書いてあることに同意である。

note.com

 これは基本的にアーティスト的コラボを前提とした企画であり、ライブなどができなくなったアーティストやダンサーが星野源の胸を借りてバズる機会を得るためという狙いがあると推測できる。それに対して、非アーティスト的に「ただ横に並べただけ」というやり方があまりに的はずれである。企画のコンセプトがわかっていない。安倍首相は歌うなり踊るかすればよかったのだ。コラボになっていない。やってることは、他人のバズったツイートのリプ欄で全く関係ないことの宣伝をしてるのに近い。

 また、(序盤しか見てないが)HIKAKINと小池都知事の対談は成功してるっぽいことと比較して、より残念な感じになっている。

youtu.be

逆転

 そして、コロナで大ダメージを受けた音楽界に対してなんの救済もできていない政府が都合のいい時だけ音楽シーンを利用するのはそりゃ反感を買う。逆に言うと「これを通して音楽の力を痛感した。やっぱ支援します」というようなハンドルの切り方で逆転する手もあるように思う。

反響

  これに関して「35万のいいねが全部ポジティブなものだと思うなよ!」「ツイッターには低評価ボタンはないからな!」というような批判が見受けられたが、それにはあまりしっくりこなかった。ツイッターの使い方は人ぞれぞれなので雑な所感になるが、批判的な態度で「いいね」を押す人ってそんなにいるか??

 批判的な態度を表明するのなら、普通「リツイートしてエアリプ」か「引用リツイートで批判」じゃなかろうか。「いいね」を押す人は本当にいいねと思っているか、ノンポリ的な立場からシンプルにこの動画の「おもしろさ」を茶化している人であるように思う(つまりある意味でポジティブに捉えている)。「35万のいいねはほとんど偽物」という解釈はポジトークすぎる気がする。舐めちゃあいけない。

仕組み

 これのアイデアが出てから、内容を練り、実際に実行するまでの間にこれを止められる人間というのはいなかったのだろうか?というような疑問が浮かぶ。一時首相官邸のインスタストーリーの完成度の高さが話題になっていたが、あのチームはどこに行ったのか。こうなるに至った仕組みが不思議でならない。

 とはいえ、ここで注意をしたいのは、このような疑問は「今回の企画は失敗だった」という前提の上でのものである。マスク二枚についてもそうであるが、それが悪手であると決めつけた上で何かを考察したところで、それはポジショントークになりバイアスを孕みやすく危険である。もしかしたら、自分が気づいてないだけで、そうした方がいいという、専門家にはわかる理由や狙いというのがあるのかもしれない。そこに想像力を働かせなければ、問題の本質は見えてこない。本当に愚かな政治家たちであるなら、こんなに長く政権を維持していない。

 これなんとなく一理ある。

給付金

 基本的に世の中の大きな関心は給付金が出るか出ないのか、出るとしたらどういう形で出るのか、であるように思う。この件について考えるうえで、渦 その4にも書いたが、やはり「余裕のある人から余裕のない人に分配してくれ」という要望なのか、「無限にお金を刷って分配してくれ」という要望なのか、ということに頭を回してくれという気持ちになる。ない袖はふれないのだ。「自粛要請と補償はセット」だと思うが、「補償と財源確保はセット」でもある。給付するのであれば、その分どこかからお金がなくなっているのである。そのあたりを考えない限り、どうしても思慮浅く聞こえてしまう。

 また、これは政治闘争というか支持率どうこうで攻める話なのだろうか? 法的に「自粛要請と補償はセット」ということを示して裁判的に解決できることではないのだろうか?人々の自由を制限してしまっているのだから、いけそうな気がするので、その辺り、気になる。

  また、ここまで頑なに出し惜しみする理由というのはなんなのだろう。今まで「高齢層に媚びた政策ばかりだ」なんて批判をよく見た気がするが、今となっては支持率稼ぎ的には給費金をばらまかないのはうまくなさすぎる。そこの背景が気になる。

テラスハウス

www.cinematoday.jp

 テラスハウスの撮影が停止したというニュース。なんてこった。

 テラスハウスは不要不急のシェアハウスということなのか。台本もなく、ただただ生活を記録していただけのはずで、ただただの生活というのは不要不急のものではないと思って希望を持っていたが、実際にこうなってしまうとは。

 最近いろんなことがどうでもよくなってきて、軽い気持ちでテラハのオーディションに応募でもしてみようかしらと思って検索したらこんなものが出てきてショックを受けている。たしかに住人から感染者が出たらやばすぎるので、仕方がない。

 

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渦 その5

 どうも、たけです。更新頻度がブログらしくなってきた。

 

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 二度と

 やっぱり「#現金一律支給がなければ二度と自民党には投票しない」というタグの印象が強く、いろいろ考えている。自分の執念に軽く引く。少し考えなおしもした。民主主義のシステムを受け入れた上で闘争するとなればそういうことになるのかなとも思う(そもそも僕は民主主義が気に食っていない)。その辺を自覚した上でなら、まだいい。

 だがどうしたって少なくとも「二度と」は余計である。将来自民党があなたの気に食う政策を提案するかもしれないでしょうに。結局のところ、僕はこういう思慮浅さにムカついているのだと思う。そしてこういう思慮浅い発信が威力を持つことを恐れている。簡単に「二度と」とかつけてしまう非理性的な人間が選挙権を持つことに納得していない、そういう選民思想が垣間見える。でも思慮浅い人間にも選挙権を与えるというのが思慮深く考えた結果としての民主主義のあり方であると思えば、「それはそれで」とも思えてくる。

 

教育

  高校教員をしている友人とLINEでやり取りがあった。休校しているということで、「オンライン対応している塾に通ってる人と、そうでない人とで差が出てきそう」という素人ながらの懸念について話すと、「いちおう課題は出しているし、そういうのをちゃんとやるかもでかい」とのこと。しかし、「そういう課題は普段からやる習慣ついてる子はやるしやらん子はやらん」というようなことも言っていて、これに関しては「そりゃそうだ」とも思うが、学校教育の敗北宣言であるとも思った。ほっといたらやらない生徒を自己責任で済まさないのが学校教育の醍醐味なのでは?

 休校対応された小中高生はどういう感じなのだろう。未熟な状態で日常がはく奪されている。暇に殺されやしないのだろうか。特に「卒業して、まだまともに入学できていない人」というのはどういう感じなのだろう。所属が浮いている。

 

進撃

 「進撃の巨人」の31巻が出たので読んだが、相変わらずおもしろすぎる。クライマックスにかけて完成度が高さが輝き始めている。完結が楽しみである。こうなってくると別マガで読んでおきたい気もするが、わりと単行本の切れ目を意識して描いてる感じもあるし、ネタバレさえ回避できるのなら単行本のままでもイケてる気がする。オンラインでアーカイブを買えるのであれば、最終話が載った時点で読んでない分の雑誌を大人買いして一気に読むのもありかもしれない。コロナ関係ないな。

渦 その4

 どうも、たけです。ブログがはかどっていますね。コロナ禍の中での考え事、今回は給付金の要求の仕方についてなどです。

 

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媚びた政策

 「#現金一律支給がなければ二度と自民党には投票しない」というタグがトレンドに入っていて不快に思い即ブログを開いた。「得票率を上げるために老人に媚びた政策をするな」という批判と同じロジックでこれも批判できる。政策Aをすべきだから政策Aをするべきなんであって、政策Aをしないと投票してもらえないから政策Aをするべきというわけじゃないでしょう。政策Aの有効性にかかわらず、ロジックが間違っている。民主主義とはそういう世界を導いてしまうものなのでしょうが。

 あと「現金一律支給がなければ二度と自民党には投票しない」というのは裏を返せば「現金をくれたら投票してもいい」だと思うとなんだか香ばしくもある。この理由で否定しだすと「欲しがる」主張はすべて無効化されてしまうし、そういう全否定をしたいわけではない。そこに正当性があってほしいだけである。そういうところまで頭を回した上での主張であってくれよな、という気持ちである。

マスク配布にかかるお金

 全世帯にマスク2枚を配布するのに466億円かかるということで批判が上がっている。税金から466億円が市場に流入するのなら、それはみんなが望んでいるバラマキの一部なのでは?とも思うのだけれど。

 これに怒るというのは「必要な人のところにピンポイントで現金を届けろ」というベクトルが含まれ得る。その2で書いたように、全員に対する給付を望むロジックは余裕がある人にもお金が入ることを肯定しているし、なんにせよ市場にお金が流れることは良しとしているはずだから。「マスク二枚配布するのに466億円かかるのは別にいいが、それはそれとして現金給付もしてくれ」というのは十分成立する。一方で、特定の業界に税金が流れることを批判する場合は「給付先を選別すべし」という意図があるので「全員給付」にも反対するべきである。

 有効な批判は「市場に税金を投入してくれるのはいいけれど、それなら全員に対する現金給付の方がいい」というものか「別の特定の人に給付すべき」である。それならわかる。

救済のための二つの分配

 弱者救済的なことを考えるときに、「再分配」と「新分配(言葉は適当)」みたいなものをちゃんと分けて考えないといけないように思う。余裕のある人からお金を取って余裕がない人に渡す再分配をすべきという主張なのか、お金を新しく刷って配るべきという主張なのか。経済のことはよくわからないが、僕の感覚では再分配はやってほしいが新分配はよくわからん。世の中に価値が生み出されていないのにお金だけ発生するのはシンプルに違和感がある。これはマジで雑な意見です。経済のことはよくわかりません。

渦 その3

 どうも、たけです。コロナ禍の中での考え事シリーズです。今回は社会的正義風のマスク買い占めについての考え事と、将来がどうでもよくなっていく話です。

 

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買い占めと公共性

はじめに 

Appleがフェイスシールド製造に取り組んでいるという記事。

www.gizmodo.jp

見出しの内容とはそれるが、最後の方の次の文章に引っ掛かった。

さらに、アップルは2000万枚以上のマスクを確保。このマスクは、アメリカ政府へと寄付されることになります。

孫正義も同じようなことをしていたっけ。これらのマスクはどこから来たのだろうか?

一般人による量販店でのマスク買い占めは批判されがちであるが、この人たちのマスク買い占めは問題ないのだろうか? この問いに関して、批判派の僕 vs 擁護派の僕で議論してみる。

議論

開幕

批判派「これはなんだか英雄行為風ではあるけれど、要するに他の場面では批判されている”マスク買い占め”なのでは?」

擁護派「いや、批判されているのは”個人の必要量を大きく超えた過剰なマスク買い占め”である。マスクを集めて政府に寄付し、理性的判断のもとで必要なところにマスクを分配することは有益である。」

批判派「そのマスクの入手先というのはどこなのか? 仮に国内であった場合、それは国内市場からマスクを買い占めていることになり、市民にマスクを届きにくくしているのではないか? 一方、海外からであった場合、国益を優先すべしという考えのもとでは自国に優先的にマスクを確保することは国益となるが、国際的に見た場合には他国に対してマスク買い占めを行っていることになる。」

 擁護派「では、ここで議論を二つに分けましょう。」

議論①:マスクの入手先が海外である場合

擁護派「マスクの入手先が海外である場合、その入手先ではマスクが余っているということです。よって、『その国からマスクを買い占めた』とは言えません。その国のマスク生産は潤沢であり、その国から他の国へのマスク供給も引き続き行われている可能性は高いのではないでしょうか?」

批判派「そうであればあまり問題ないかもしれません。そうでなければ国際的に見た”買い占め”だと思います。あるいは、その海外の工場が収益のために自国民への供給を犠牲にしている可能性もあります。可能性の話になってきたので、もうこれ以上はなんとも言えません。」

議論②:マスクの入手先が国内である場合

批判派「入手先が国内である場合、国内市場からマスクを干上がらせている一因になると言えませんか? マスクを入手できていない市民は多いと思いますが。」

擁護派「マスクは政府から配給されるので安心してください。また、医療関係者や福祉関係者などはマスクの必要性が他より高いです。必要性の高さに応じてマスクを配分するためにも、マスクの供給を政府が管理することは重要です。」

批判派「それはわかるんですけど、なんか腹立つんですよね。これはもう腹が立つという話ですので、議論はここで終わりにします。」

擁護派「なんやねん」

腹が立つ話

 例えば、

能力の高い人間が、能力が低いけれどお金を貯めこんでいる人間からお金を奪って、「このお金は自分が使った方が生産性が高い」と主張する

みたいなことについて、どう思います? これはまんまドストエフスキーの『罪と罰』の話なわけですが。

 公共性を優先したときに発生しうるこういう主張に対して僕は慎重でありたくて、だから「いや朝から薬局に並んでマスク買い占める奴よりも医療関係者に行くようにした方がいいやろ」と素直には思えない。なぜ慎重でありたいかというと、功利主義的な主張はめちゃめちゃ強いから。強すぎるので、そういう思想の暴走が怖い。生産性で線引きすることの恐ろしさよ。

 一方で、理としては大きな力を持った人や企業や政府にしかできないことがたくさんあって、その力による強力な統治でしかなんともならないこともあるし、それでなんとかしてほしい気持ちもある。わがままである。

 

将来がどうでもよくなっていく

きっかけ

 ちょっと将来のことを考えたりもする。少なくとも今現在収入や生活に困っていないということで、気楽なものである。さて、渦 その1では次のようなことを書いた。

将来エンタメ業界で働きたいと思っているが、現在ライブシーンはズタボロである。

これがじわじわ来ている。

思想の変遷

 最近気づいたのだが、僕は将来どうなりたいとか、社会をどうしたいとかいう気持ちがほとんど、あるいは全くない。

 少し遡って話をする。僕はかつては「目的型人間」で、「将来に目的を据え、その目的達成のために日々行動する」というような意識高いノリでやっていた。しかし、その目的の理想が高すぎたことで自分の才能ではそれが達成困難に思えてきて、「これ目的達成できなかったときに、そのために犠牲にしてきたことがきつくなりすぎるな」と思って怖くなった。また、目的達成型の生き方というのは人生が「やるべきことをやっている時間」と「サボっている時間」に二分されるので、日常に余暇がなくなり、そのしんどさのコストの蓄積が目的達成時の喜びを超える見込みが出てきた。

 そこで、徐々に「目的」から自分を解放していき、目の前のいろいろをその都度楽しむスタイルに自分を改造してきた。この戦いはもう6~8年ほどやっていて、実際に変われているし、もうだいぶ板についてきたと思う。

 その結果が「将来どうなりたいとかがない」である。「社会をどうしたいとかがない」は最初からそうだった。やったね!と思っているけれど、とはいえ、難しいものである。目的があるとその目的に縛られてしんどいし、目的がないならないで意味がなくてしんどいとは。

エンタメすら

 今はその時々に目の前に現れたゲームの攻略を楽しむような生き方になっている。それなりに楽しいし、充実感もある気がするが、どんどん主体性を失っている感じがある。自分にやりたいことがないので当然である。本業にしても、成り行きでやることになったことをこなしている感じである。

 それでも「エンタメ業界に入って”作品”を作りたい」という気持ちは維持していた。薄まっていることには気づいていたが、見て見ぬふりをしていた。他にやりたいことが生じてないから、最後に持っていたものが更新されずにそのまま置きっぱなしだっただけかもしれない。

 そこにコロナ禍である。特に舞台系やライブシーンを中心としてエンタメ業界は大打撃を受けている。この業界で働くことの快適度が下がっていることで、「別にエンタメじゃなくてもいいんじゃないか」という言い訳の土台が自分の中で構築され始めているのを感じる。おれは「将来エンタメ業界で働きたいと思っている」すらも失うのか?

 

 結婚願望と子育て願望がないのも効いていると思う。 まぁ、なるようになれですよ。

渦 その2

どうも、たけです。

コロナ禍に関する雑記シリーズです。

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補償

生活の維持

 「活動をやめてほしいなら補償しろ」という主張がTwitterで目立つ。わかる。一方で、政府としては「生活の維持に必要な業種には引き続き継続するよう求める」ということである。こっちも気にすべきではないか? こういう業務の中には人より多くの感染リスクを引き受けることによって成り立つものもあるはずである。ならば、その感染リスクに応じた補償だってするべきである。「お願いします営業を止めてください」にも、「お願いします営業を続けてください」にも補償は必要なのではないか。「収入があるからいいじゃない」では済まないように思う。

論拠

 そもそもこういった「給付金」を要求する論拠というのはなんなのだろう。思い浮かんだものをざっと書いてみる。

  1. 活動を休止してもらうための安心材料としての補償
  2. 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償
  3. 弱者(になった人)を救済するのための保障
  4. 経済を回すためのばらまき

他にもいろいろあるでしょうが。

 1はなんとなく自由経済的なノリというか、「経済活動の必要性」を「感染リスクに対する恐れ」よりも下げることを目指している。これは「活動を自粛してほしいなら補償しろ」である。

 2は個人の権利を制限することに対する賠償である。まさに今読んでいる『アナーキー・国家・ユートピア』で著者ノージックが言っているようなノリである。僕はこの立場にいる。この場合は、賠償の対象は必ずしも経済的なものに限らず、移動制限や外出自粛要請などに対しても賠償は発生しうる(今のところ国は「強要」はしていないのかもしれないが...)。こっちは「活動を制限するなら賠償しろ」である。

 3は福祉的な。健康で文化的な最低限度の生活を保障するためのものである。今の日本の対策は収入が減った人だけを対象としているので3っぽい。3の立場であるなら全員を対象とする必要はなく、問題はその判定基準の正当化と手続きの簡易化に絞られる。

 4は「とにかく市場を活気づけろ!」的なノリ。経済を回すことが目的であり、余裕がある人にさらに余裕を持たせることを許容する。実際のところ、「給与の80%支援」なんかで「ピンチではない富裕層に給付金が入る」となった場合、それに納得しない人は多いように思う。「お肉券」という案があったが、これらはそういうのに納得しない立場から出る発想なのだろう。給付金が「経済を回すこと」に使われなければ意味がないので、使い道を限定しようという考えである。「使い道を限定せずとも市場を通して流れるべきところに流れる」という考えが通用するのかはわからない(ウシジマくんは「金のあるところに金は集まる」というようなことを言っていた)。速度感を重視しての「全員に給付」という主張は筋が通る。「結果的に流れるべきところに流れる」=「流れるべきところに流れるべき」という理屈であれば、最初から傾斜をつけて流れるべきところに確実に給付すればいいように思う。また、「経済を維持するために弱者を救済しよう」という立場によって結果的に3と同じ手段を求める立場もありそう。

 仮に結果が同じだとしても、論拠が違えばそれらは別物である。正しい論拠に基づかなければ、たまたま結果がまともだったとしてもそれはよくない。同じ論拠で次は間違うかもしれないからである。

インフレとか

 全然知識がないので何もわからないが、お金をばらまいたとしてインフレがどうこうというのは心配しなくていいのだろうか。負の圧力が強すぎるからそのくらいしてちょうどいいのだろうか?

 どの程度のお金を市場に投入するのが適切なのか。なんらかの計算によって適切な投入額が決まる場合、その総額を全員に薄く配布するのか、ピンチの人に限定して厚く配布するのか、どちらがよいのか? ちなみに僕の場合、もし今貰っているお小遣いの制度が「採用数を倍にする代わりに半額」ということであったならおそらく進学していない。

 

ラジオ

 ラジオは相変わらず癒しである。気のせいかもしれないが、コロナ禍の激化に伴って「オードリーのオールナイトニッポン」で若林がいつも以上に張り切っているように思う。バカやってやんぜ!というような気概を感じる。オープニングトークが長いし、春日のトークへの介入が多いし、ひろしのコーナーの頻度も高い。よき。

 

というお話。

渦 その1

 「渦」ではなく「禍」らしい。どうも、たけです。

 小学4年生なりに、これまでの人生で経験した中で社会的に最大規模の出来事が起きている(規模で比べられないものはたくさんあるが)。こういう時に考えたことを都度記録しておくのはいいことな気がする。では、コロナ禍について。

 

非日常

 規模がでかすぎる。面積的にも時間的にも。常日頃から「早く隕石落ちて全てを終わらせてくれ」と思っているが、こういう終わらない形で世界的大規模災害が訪れるとは。こうした非日常はいつまで続くのか。それともこれが日常になっていくのか。いずれにせよCOVID-19以前以後で世界は変わるわけで、(不謹慎ではあるが)その節目の渦中にいることに興奮している自分もいる。退屈がまぎれる。

 

日常

 もともとなるべく家にいたいタイプの人間なので、家にこもることは全く苦痛ではない。家にいたすぎてコロナ以前からリモートワークできる環境を整えて勝手にやっていたので、その点は困らなかった。今年度中はお小遣いも減らない。人との接触はほぼなく、コロナ的にはかなり安全な生活をしている。目標にしていた重要なイベントが延期になったり影響を受けてはいるが、忙しさが分散してむしろ助かっているくらいである(これは半年程度で収束のめどが立てば、の話)。ラッキーだと思う。

 このように自分の日常がたいして変化していないためか、現時点では自分事としての実感が薄い(志村けんにも思い入れがなかった)。サリンと9.11は記憶にない。3.11のときはショックで呆然としながらテレビに映る悲惨な映像を眺めていた。今回はまた違う感じである。これが今後徐々に自分事になっていくとしたら、その過程もブログに記していきたい。

 

自粛

 よく言われているが、「自粛を要請」というフレーズはどこか不思議である。「自主練を強要する」みたいなものである。しかし、「ご遠慮ください」なんかは同じ構文のわりに馴染んでいるので、これまた不思議である。ちなみに僕は「ご遠慮ください」にもちゃんといちいち引っかかっている*1

 そもそもこれは「禁止する権限はないのだからそう書くしかない」ということである。このような事態に、政府は市民の自由をどこまで制限することができるのか。そして制限に伴う賠償はどのようになされるべきか。今友人たちとの読書会で『アナーキー・国家・ユートピア』を読んでいるのもあってこの辺りは気になるポイントである。功利主義的な考えに基づいて全体の利益のために個人の自由を制限することは容認可能か。

 賛同するかどうかは別として、下記ツイートにはうならされた。パワーバトルである。

 

政治

 この騒動に対して各国いろんな対応をしていて興味深い。日本もマスク二枚の配布を決めるなど大胆な政策を打ち出していて興味深い。政治のことはよくわからないので、全文末に「知らんけど」をつけて読んでいただきたい。

 さて、遡ること2011年、東日本大震災。震災への緊急対応を一通り終えた後、当時の菅首相は辞任した。どういう経緯でそうなったのかはよく知らないが、当時の僕なりに「未曽有の災害に対して完璧に対応できることなんて誰もできないだろうし、こういった出来事の後は何かしら批判されて政権を降ろされるものなのだろう」という印象を抱いた。一方で、安倍政権は長い。なんとなく、コロナ禍を終えた後も「コロナ禍を乗り切った首相!」みたいなノリで政権を維持してそうな雰囲気がある。この防御力の高さはなんなのだろう。

  給付金の対象が全住人ではなく、収入を基準に線引きした世帯単位(個人ではなく)だったりするのはどういう思想なのだろう。いろんな経済活動に自粛を求めている一方で、お金を配ったら経済活動が活発になって感染拡大してしまうという懸念があるのかもしれない。世帯単位なのは家族を大事にしてほしいから?よくわからんが。いずれにせよ、ツイッターで賢い人たちが述べているようなまっとうな正論というのがこの世でどの程度実効的な攻撃力を持てているのか気になる。そんなやわな相手ではないと思うし、相手側が大事にしている思想の軸を理解することが大事であるように思う。

 マスク二枚を御守りとしてありがたく頂戴して大切にする世界なのかもしれない。ソフトバンクユーザーがドーナツ無料でもらえるみたいなやつでミスドに行列できてたように、そういうのはなんだかんだみんな好きなはずである。

 

オリンピック

 東京開催が決まったころから賛否両論ある東京オリンピック。当初経済的な理由で開催を批判していた人もいたけれど、投資しまくった後の今となってはもうその理由は通用しなくなってるのではないか。

 東日本大震災からの「復興五輪」をコンセプトとして掲げていたが、それが今やコロナ禍からの世界的復興五輪にパワーアップした。オリンピック開催の是非については特に意見は持っていないが、実際のところとして、世界が協力して仲良くコロナ禍を乗り切った後にようやく開催できたオリンピックともなれば、さすがにそれはもうブチ上げのお祭りになる気がする。

 あと知り合いが出場内定していたので、個人的にその人の心境が気になりはする。今世界中に「オリンピックに出れたのに出れなくなった人」というのが出ていると思うと、洗練された人間に憧れを抱く自分としてはわりと切なさが強い。

 

エンタメ

 将来エンタメ業界で働きたいと思っているが、現在ライブシーンはズタボロである。不要不急のエンターテイメントが、コロナ後の世界でどんな感じになるのかは自分の将来にも大きく影響してくるかもしれない。音楽シーンでは音源の売り上げよりもライブの売り上げの割合が増えていると聞いたことがある。シーンの中心は「視聴」というよりも「体験」「共有」に移っていたはずである。それの流れに強烈な歯止めがかかった中で、どういったエンタメがサバイブしていくのか。

 舞台装置的なものを作りたいと思っている自分にとっては、ライブシーンが盛り上がっている方がありがたかった。コロナ後の世界では、自分はやや不利な立場に置かれるのかもしれない。

 

アップデート

 こういう巨大なインパクトによって、古い不要なシステムが更新されていくのは効率的で良いことだとは思うが、当然なにかしらの副作用を伴うはずである。コロナ禍の中で「日本が選択と集中によって不要なものを削ってきたせいで有事の時に柔軟な対応ができない」という批判をよく見るが、それを言うなら「あれもこれもリモートでいけるやん」「ハンコいらんやん」という切り捨ても同様の危険性をはらんでいると言える。以下のツイートが印象に残っている。

 

よくわからんが

 いつまでこういう感じが続くのだろうか。季節性のものではないとすると、「治療法の確立」か「ワクチンの確立」か「全員感染して免疫獲得者だけが生き残る」かでしか収束し得ないように思える。知らんけど。

 

とりあえず今はこんな感じです。

 

shogakuyonensei.hatenadiary.com

*1:例えば「ここでの飲食はご遠慮ください」と指示された場合、それに従うためには一度「飲食したいな」と思ってから「でも遠慮しよう」と思わなければならない。遠慮というのはそういうものではないか。僕としては「ここでは飲食しないでください」あるいは「飲食したい人は飲食をご遠慮ください」としてほしい。「飲食したい人は」が省略されていると思えば許せる。

昨日死んだワニについて

 どうも、たけです。

 

 

 昨日ワニが死にましたね。企画のバズりっぷりがすさまじいです。すさまじすぎるので、多少の葛藤ののちに、触れることにします。

 

おもしろポイント

日常の印象の上書き

 この企画は「近いうちに死ぬことを最初から言っておくことで何気ない日常に深みを持たせる」というのがまずポイントでした。ただの日常のワンシーンが、死を意識することで別の意味を帯びるというおもしろさ。

 こういった要素は、例えば僕の好きな浅野いにおの漫画『デットデットデーモンズデデデデデストラクション』にもあります。この作品では女子高生のゆるふわな日常を描きつつ、そこは対宇宙人との戦争下で「人類終了まであと半年」とか巻末に出てきます。『デデデデ』は最高。

 あるいは物語の二周目の視聴において、伏線を伏線と知って見るときも同じような気持ちになりますね。なのでこれだけではオリジナリティが弱い。

リアルタイム性

 ワニの際立った特徴は、それを現実の一日に劇中の一日のペースで進行したことだと思います。普通の漫画とは異なり、現実世界と同じタイムスケールでストーリーが進んでいく。これが「どう死ぬか」という点ではなく「日常」という線をハイライトした作品においてとてもいいやり方だったように思います(なのでリアルタイム性を終えた今は...)。

 

どうなのよ

死生観

 気になるのは作者の死生観がよくわからないこの感じ。「結局どういうつもりで何をしてたん??」という気持ちになっています。コンセプトはどうなってるねん、という、完成度が低い感。

 ワニの日常の尊さみたいなものを描いておきながら、ものすごく美しい感じに死を描いておきながら、余韻ゼロでワニの死にはしゃぎまわってるこの感じ。ピークのうちに告知を打っておかなきゃいけない気持ちもわかりますが、作品としての完成度がガタ落ちしたように思います。追悼POP UP SHOPには失笑が漏れました(書体に加え、追悼は公式がやるものなのか??というのも)。

 たとえば、この作品のコンセプトというのは「AI美空ひばり」なんかにどういうスタンスをとっているのか?生死を武器にしているけれど、その辺りの価値観ちゃんと固めてんのか?という疑問が浮かびます。ワニの人格を丁寧に作りこんできたと思っていたら、死ぬや否や一瞬でアイコン化しているこの感じ。今までリアルタイム性を武器にしてきたのにこの速度はなんやねん。

 あるいは「言われた通りドキュメントのていで見てたんだから、カーテンコールなんてやらないでほしい」というような。

薄れていく希少価値

 この作品は100日というカウントダウンが醍醐味で、その「限りある時間」によって際立っていたものが、後からいろいろ出した分だけ薄れていってしまうということ。いろいろ出せば出すほど作品のコンセプトが崩れていく。そういうシステムで評価されといて、それを自ら壊していってる感じ。

 

終わりに

 そもそもグッズ販売なんてのは「でもワニくんの命は輝いてたよね!ワニくんありがとう!」「ワニくん生き返って~」みたいな層がターゲットだとすると、僕は完全に眼外(眼中の外)から不満を述べているだけなわけですが。

 みんなでワニが死ぬのを心待ちにしている感じとかはおもしろかったです。ここまで大きなバズ、なかなかない。クリエイターがお金を稼ぐことに対して全く文句はないですし、これだけのコンテンツを提供したんだからうまく売れてほしいです。作品の完成度を大事にしながらな!