イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

渦 その2

どうも、たけです。

コロナ禍に関する雑記シリーズです。

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補償

生活の維持

 「活動をやめてほしいなら補償しろ」という主張がTwitterで目立つ。わかる。一方で、政府としては「生活の維持に必要な業種には引き続き継続するよう求める」ということである。こっちも気にすべきではないか? こういう業務の中には人より多くの感染リスクを引き受けることによって成り立つものもあるはずである。ならば、その感染リスクに応じた補償だってするべきである。「お願いします営業を止めてください」にも、「お願いします営業を続けてください」にも補償は必要なのではないか。「収入があるからいいじゃない」では済まないように思う。

論拠

 そもそもこういった「給付金」を要求する論拠というのはなんなのだろう。思い浮かんだものをざっと書いてみる。

  1. 活動を休止してもらうための安心材料としての補償
  2. 公共の利益のために自由を制限することに対する賠償
  3. 弱者(になった人)を救済するのための保障
  4. 経済を回すためのばらまき

他にもいろいろあるでしょうが。

 1はなんとなく自由経済的なノリというか、「経済活動の必要性」を「感染リスクに対する恐れ」よりも下げることを目指している。これは「活動を自粛してほしいなら補償しろ」である。

 2は個人の権利を制限することに対する賠償である。まさに今読んでいる『アナーキー・国家・ユートピア』で著者ノージックが言っているようなノリである。僕はこの立場にいる。この場合は、賠償の対象は必ずしも経済的なものに限らず、移動制限や外出自粛要請などに対しても賠償は発生しうる(今のところ国は「強要」はしていないのかもしれないが...)。こっちは「活動を制限するなら賠償しろ」である。

 3は福祉的な。健康で文化的な最低限度の生活を保障するためのものである。今の日本の対策は収入が減った人だけを対象としているので3っぽい。3の立場であるなら全員を対象とする必要はなく、問題はその判定基準の正当化と手続きの簡易化に絞られる。

 4は「とにかく市場を活気づけろ!」的なノリ。経済を回すことが目的であり、余裕がある人にさらに余裕を持たせることを許容する。実際のところ、「給与の80%支援」なんかで「ピンチではない富裕層に給付金が入る」となった場合、それに納得しない人は多いように思う。「お肉券」という案があったが、これらはそういうのに納得しない立場から出る発想なのだろう。給付金が「経済を回すこと」に使われなければ意味がないので、使い道を限定しようという考えである。「使い道を限定せずとも市場を通して流れるべきところに流れる」という考えが通用するのかはわからない(ウシジマくんは「金のあるところに金は集まる」というようなことを言っていた)。速度感を重視しての「全員に給付」という主張は筋が通る。「結果的に流れるべきところに流れる」=「流れるべきところに流れるべき」という理屈であれば、最初から傾斜をつけて流れるべきところに確実に給付すればいいように思う。また、「経済を維持するために弱者を救済しよう」という立場によって結果的に3と同じ手段を求める立場もありそう。

 仮に結果が同じだとしても、論拠が違えばそれらは別物である。正しい論拠に基づかなければ、たまたま結果がまともだったとしてもそれはよくない。同じ論拠で次は間違うかもしれないからである。

インフレとか

 全然知識がないので何もわからないが、お金をばらまいたとしてインフレがどうこうというのは心配しなくていいのだろうか。負の圧力が強すぎるからそのくらいしてちょうどいいのだろうか?

 どの程度のお金を市場に投入するのが適切なのか。なんらかの計算によって適切な投入額が決まる場合、その総額を全員に薄く配布するのか、ピンチの人に限定して厚く配布するのか、どちらがよいのか? ちなみに僕の場合、もし今貰っているお小遣いの制度が「採用数を倍にする代わりに半額」ということであったならおそらく進学していない。

 

ラジオ

 ラジオは相変わらず癒しである。気のせいかもしれないが、コロナ禍の激化に伴って「オードリーのオールナイトニッポン」で若林がいつも以上に張り切っているように思う。バカやってやんぜ!というような気概を感じる。オープニングトークが長いし、春日のトークへの介入が多いし、ひろしのコーナーの頻度も高い。よき。

 

というお話。