ゾーイーに同意
どうも、たけです。人生が低迷しているので、僕のバイブルであるJ.D.サリンジャーの小説『フラニーとゾーイ―』の「ゾーイー」を読み直した。人生7、8回目くらいである。落ち着くので。
そうするといかに自分がこの小説、寄ってはゾーイーというキャラクターに強く影響を受けているかということを改めて実感した。そして感動を覚えたので、備忘録として主要箇所をまとめておこうと思う(昔から僕には憧れた人の口癖などが移る傾向があった)。
『フラニーとゾーイー』を読むならば野崎孝訳を強く推奨する(村上春樹訳ではなく)。
P. 106
七、八歳の時分から、彼がひそかに戦ってきた自己陶酔症(ナルシシズム)との戦いにおいて、この目は、いわば中立地帯、一種の無人地域であるという格好であった。
完全な客観と異なる評価を自分に与えることを「ナルシシズム」と定義して以来、ナルシシズムとの戦いはずっと続いてきた。自分を過大評価することも過小評価することもなく、しごく客観的に正当に自らを評価できた場合のみ、ナルシシズムから脱却することができる。ナルシシズムは常に僕らの目を曇らせてくる。自己陶酔症(ナルシシズム)との戦い。
P. 122
「あんたも奥さんをもらってくれたらいいのにねえ」藪から棒に、グラース夫人は、しみじみとそう言った。
(中略)
彼女は繰り返した「どうして結婚しないのかね」
(中略)
彼はそのハンケチをしまいながら言った「それはね、ぼくが汽車に乗るのが好きだからさ。結婚したらもう、窓際の席に座れないだろう」
そう、すぎる。結婚に興味が持てない。これまで6人付き合って、全員自分から唐突に別れを告げている。これはたぶん僕に何か問題がある。僕は窓際の席に自由に座りたいし、自由にそこを立ち去りたい。
P. 143
フラニーはぴくりと身を震わせて目をさました―
(中略)
そして朝の陽光に目を細めた。「どうしてこんなに明るいの?」
(中略)
ゾーイーは、そういう妹をまじまじと見つめていたが「ぼくは自分の行く所には常に太陽を持っていくのさ」と、言った。
いくらなんでもかっこよすぎる。解釈は諸説あるかもしれないが、このセリフが強く印象に残って、僕は「自立せねばならぬ」と思っている。自分を照らす太陽は自分で用意すべきである、と。他人に光を求めるのはなるべく避けたい。
タトゥーを入れるとしたら、このセリフにちなんで太陽のモチーフにしようと思う。
P. 186
きみは、彼らが象徴しているものを軽蔑するだけじゃない――彼らそのものまでを軽蔑するんだ。それでは人身攻撃にすぎるよ、フラニー。本当だよ。たとえば、タッパーの話をするときのきみの目、まるで人殺しをする奴のように本当にぎらぎら光ってるぜ。
(中略)
いいかい、ぼくはからかってるわけじゃないんだよ――きみが言うのを聞いていると、まるで彼の髪の毛が君の仇ででもあるみたいな感じなんだ。これは間違ってるよ――しかもきみ自身がそれを承知している。もしも制度相手に戦争しようというんなら、聡明な女の子らしい銃の撃ち方をしなくちゃ――だって、敵はそっちなんだろう。彼の髪のやり方やネクタイが気に入らないというのは関係ないよ。
これはたびたびTwitterなどで目に付く動きに対して僕が抱く反感の根っこになっているかもしれない。「聡明な女の子らしい」という表現は現代的でないにしても、その真意には同意する。人身攻撃にすぎるよ。
P. 219
「葉巻は安定剤なんだよ、カワイコちゃん。安定剤以外の何物でもないんだ。もしも葉巻につかまらなければ、あいつ、足が地面から離れてしまう。ぼくたちはわれらがゾーイーに二度と会えなくなっちゃうぜ」
グラース家には、経験を積んだ言葉の曲芸飛行士が何人もいたけれど、今のこういう科白を電話での話の中にうまく持ち込む腕前を持っているのはおそらくゾーイーだけだったろう。
言葉の曲芸飛行士! さすがゾーイー。
最近タバコを吸い始めました。僕に似合っているので。何より煙を吸っているゾーイーはかっこいい(憧れ)。「長生きに興味がない」と言いながら、タバコの健康面への害に躊躇するのはフェイクである。
P. 223
フラニー、君に言うことが一つあるんだ。僕が本当に知っていることだ。
(中略)
きみがもし信仰の生活を送りたいのならだな、きみは現にこの家で行われている宗教的な行為を、一つ残らず見過ごしていることに今すぐ気づかなければだめだ。人が神に捧げられた一杯のチキン・スープを持っていってやっても、きみにはそれを飲むというだけの明すらない。この精神病院にいる誰彼のところへベシーが持っていくチキン・スープは、すべてそういうスープなんだぜ。
何度目かに読んだとき、この「チキン・スープ」の意味を理解した。「チキン・スープ」というのは彼らの母親であるベシーがお節介的に持ってくるスープのことである。僕にとっては、ざっくり言えば、「他人からの施し全般」と言えばいいだろうか。そういったものを、素直に、感謝しながら、受け入れることにした。
P. 225
しかし、信仰生活でたった一つ大事なのは『離れていること』だということが呑みこめなくては、一インチたりとも動くことができないんじゃないか。『離れていること』だよ、きみ、『離れていること』だけなんだ。欲望を絶つこと。『一切の渇望からの離脱』だよ。
本当はエゴを離れて神の傀儡になりたかったのに。どうにもうまくいかない。
P. 226
きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のための芝居をやれよ、やりたいなら――神の女優になれよ、なりたいなら。これ以上きれいなことってあるかね?
思えば、この言葉を信じてやってきた。神のためのなにかになろうとした。なりたいなら。なりたいのか? 僕はなにに生まれついたのか??それがわからない。風向きに従って進むのが一番進むと思って気ままにやってきたが、最近はもう、凪いでいる。
P. 226
少なくとも今なおぼくはヨリックの髑髏を愛している。
(中略)
きみ、死んだ暁には恥ずかしくない髑髏になりたいんだ。ヨリックのようなあっぱれな髑髏に、ぼくはあこがれているんだ。
僕が縛られている「ある種の潔癖さ」は、こういう潔癖さのような気がする。死んだ暁には恥ずかしくない髑髏になりたいと思っている。きれいに生きなければならない。
P. 227
しかしだね、そいつはきみには関係ないことなんだな、本当言うと。きみには関係のないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるべきはただ一つ、ある完璧なものを――他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを――狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利は君にはないんだよ、絶対に。
成すべきは、評価の最大化ではなく、自己のパフォーマンスの最大化。各々の。
P. 229
シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分らんかね?この秘密がまだきみには分らんのか?
この節を初めて読んだとき、視界が光で真っ白になって、神を見た。僕の博愛的価値観は、相対主義の先だけでなく、もしかするとこれに基づくものなのかもしれない。僕は万人に同様の価値を認め、尊重する。
(村上春樹はこれを「太ったおばさん」と訳している。相手は言葉の曲芸飛行士やぞ??)
よい文言を見て少し落ち着いたか、あるいは、理想と異なる自分に対する嫌気が増した。