イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

多様性の肯定/共存とゾーニング/ブロック

下記ブログを見かけていくつか思うことがあった。

 

 僕は差別主義者を排斥することも差別だと思っているし、そういうのも包括して多様性を肯定しないことには多様性を肯定することにはならないと思っている。価値観なんていくらでも塗り替わるし、異なる価値観たちは相対的に対等であり、ある特定の価値観の格を否定することは多様性の否定である(「社会や自分にとって都合が悪い」てきなことは言える)。なので、上記の記事が言うところの「気に入らない人を排除し、心地良い意見の人だけの小さな箱に篭ろうとするリベラルを称する人達」がリベラルを称することに対する違和感もわかるっちゃわかる。

 

 一方で、多様な人たちがそれぞれ幸せに過ごす方法を考えたとき、「ゾーニング」というのは非常に重要な手法だと思う。「お互いに視界に入るだけで不快な存在どうし」がお互い不快な思いをせずに共存するには棲み分けするしかない。「誰かに差別的言動を行うことで幸福を得られる人」と「差別的言動を受けたくない人」は別のテーブルに着いた方がいい。

 「そうやって不快に思うのが間違っているのだ」という発言は、そういうのを不快に思うという多様性の否定である。「殴ってくる人」と「殴られたくない人」は別の空間で過ごすべきだし、「殴ってくる人」と「殴られたい人」は一緒に過ごしていい。

 SNSで不快な意見をブロックすることは多様な人々が共存するための実践的な手段としては実に有効で、現実的である。「多様性の共存」を目指す人がブロックしまくるのは別に筋は通っていると思う(記事で言及されている人たちがそうなのかは知らない)。

 

 「みんながある方向に(偏った)成長をして多様性を受け入れて共存する世界」を目指すというよりは、「みんなが生まれたままで楽に共存できる世界」の方を僕は理想視しているのかもしれない。