イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

濱野ちひろ『聖なるズー』 感想

 

どうも、たけです。

濱野ちひろ『聖なるズー』を読みました。感想を書きます。

 

books.shueisha.co.jp

 

 まず読んだ動機について。世の中の「セクシュアリティの多様性を肯定していこうぜ!」みたいなノリの人の中に混ざってる「LGBTQは良いけどペドフィリアやズーフィリアはありえない!」みたいな態度の人に対して「なんもわかってへんやん」という気持ちになる。異性愛も同性愛も幼児性愛も動物性愛もその他愛も対等に扱われるべきであり、批判されるべきなのはざっくり言えば「誰かを傷つける場合」だけである(ただし、我々が動物である限り「生殖可能か」という基準による線引きは強い力を持ち得るとは思う)。どんな性的嗜好を持とうが人に迷惑をかけなければ何の問題もない(と僕は思っている)。そういうわけで、動物性愛というマイナーで世間に受け入れられにくい性的嗜好を持った人たちが、どのようにうまくその生活を成り立たせているのか興味を持った。

 

 さて、そんなわけで「動物性愛をうまく成り立たせている人」の話だと思って読み進めていると、どうやら実際にはそういう話ではなかった。これは動物性愛のうちの「聖なるズー」という限られたスタイルの人たちの話である。タイトルの意味が読んでるうちにわかる系の本だった。本書の内容は、主にドイツにある動物性愛者たちの団体「ZETA/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)」の人々の取材記録と筆者による考察である。

  このゼータの思想はある偏りを持っている。これは途中で登場する、ゼータと見解の相違により喧嘩別れをしたエドガーという人物が次のような意味深な発言をすることで明らかになる。

「ゼータは、ドイツのズーの氷山の一角に過ぎないよ」
「問題点といえるかはわからないが、彼らはとても変わったズーたちだ」
「彼らは倫理観が強すぎて、それにそぐわないメンバーをどんどん追い出していく。」

という具合に、なかなか劇的なセリフで示唆される。彼が言うにはゼータの面々というのは聖人君主を目指した「聖なるズー」らしい。ここに焦点をあてて感想を述べていく。

 

 まずズーフィリアを倫理的な視点で見るときの主要な論点と、それに対するゼータの主張を整理する。

 論点①:「倫理的な性行為かどうか」を判断するうえで「同意が取れているかどうか」という点に着目する。ズーフィリア断固反対の人は、動物相手に同意も何もないだろうと反論するだろう。これに対し、ゼータは「動物には“パーソナリティ”があり、言語を介さずとも通じ合っているので同意が取れていることは我々にはわかる」というような回答をする。さらには「我々には動物が性行為を誘ってきていることがわかる」、さらに相手から誘われたときのみ応じるのだという。なので、ゼータ的にはこの点はクリアしている。

 論点②:「動物も性的にケアされるべきである」という主張がある。これは幼児性愛とも比較されながら語られた議題なのだが、ペットを「子ども」として愛でるタイプの人間にとって、子どもであるペットが「性欲」を持ってはならないとする価値観が根強く存在するということが挙げられた。実際に多くのペットが様々な理由をつけて去勢されている。ゼータの立場は「動物も性的にケアされるべきである」という考えである。(僕個人としても飼い主の都合によって性的快楽を得る機会を奪うことはかなり残酷な行為だと思っている。)

 論点③:動物がどの程度の権利を生まれ持っていると考えるか。動物を人間より下等な存在とみなすのか、ある程度の知能や「パーソナリティ」を備えていれば人権同等の何かを付与すべきと捉えるのか。ゼータはパートナーとする高等動物を自らと「対等」の存在だとみなしている。

 

  以上の論点を踏まえ、ゼータの人々は特に次のことを大切にしている。

・パートナーと対等であること(特に重視)
・パートナーを性的にケアすること

そして、具体的には次のような対応をしている。

① パートナーを性的に訓練することはしない
② パートナーが性行為を求めてきて、自分もその気のときは性行為をする
③ 自分からはパートナーのことを誘わない
④ パートナーを性的にケアする

ゼータの人々はこれらの指針によって倫理的な問題をクリアしてパートナーと生活できていると主張しており、僕はたしかにこれによって倫理的な問題をクリアしていると言えると思う。しかし、これで筋を通せているとは思わない。

 まず、①について。人間どうしの場合に置き換えて考えてみると、互いにいろいろ工夫や努力してよりよい性関係を追究していくことは倫理的に問題ないと思える。なので、パートナーを性的に訓練することがすなわち悪とは思えない。これは相手が動物であることから、パートナーに性的魅力の向上を要求することはセックストイ化による搾取になる可能性が高いことから課した保守的なルールなのかもしれない。あるいは、世間からそう誤解されることを防ぐための戒律のように思える。これは動物側がより高度な性生活を得る機会を奪っているのではないか?

 次に③について。②のようにパートナーは自分のことを誘うことができるのに、自分からパートナーのことを誘うことができないというのは「対等」ではない。彼らが尊重しているパートナーとの「対等性」が崩れている。

 最後に④について。本書の中では「パートナーが性的な抑圧によりイライラしていることがわかるとマスターベーションを手伝う」という習慣が書かれており、実際に著者はゼータのメンバーがパートナーのオス犬のペニスを触って射精させる様子を取材している。ゼータがそう呼んでいるのか、本書ではこれを「マスターベーション」と呼んでいるのだが、マスターベーションではなくないか??「手で抜いてあげる」だと思います。二人でやってるのでこれを「性行為」と言ってしまえば、「②の対応の本番なし版」ということで納得できるっちゃできるが、これも結局のところ「対等」でないのである。なぜなら、ゼータは人間側がパートナーに手伝ってもらって一方的に性欲を満たしてもらうことは許していないのだから。

 以上のことから、ゼータは倫理的であることを大事にしようとしすぎた結果、皮肉にもパートナーと対等ではなくなっていると思った。動物からの性欲は受け止めるが、自身の性欲をパートナーに受け止めてもらおうとは思っていない。対等性を尊重しているはずの彼らが、この非対等性によって自己矛盾に陥っている。「自分から誘うことはしない」というのはつまり「相手が拒否しているかどうかの判断ができない」ということを意味してしまう。彼らが十分にパートナーとコミュニケーションを取れているのであれば、こちらから誘ってみても相手の反応次第で行為に及ぶか諦めるか選択すれば問題ないはずである。

 真にパートナーと対等でありたいなら、この「自分からは誘ってはいけない」「パートナーを性的にケアする」という非対等性を解決しなければならない。この問題を無視し、確実に相手の権利を侵害しない安全圏でのみ動物との性生活を送っているのがゼータなのだと理解した。そして「確実に相手の権利を侵害していないこと」を誇りに思って満足している。現状の社会からの批判に対抗するための武装としては完成度が高いように見えるが、しかしながらこの非対等性によってゼータは自らと動物とが対等でないことを認めているようなものである。

 

 ゼータと喧嘩別れをしたエドガーのような「他のズー」たちのことは本書ではほとんど描かれていない。この本は上記のように倫理的な意識が高い「聖なるズー」のことが書かれた本である。筆者がこの先ゼータを超えて、よりディープな世界に踏み込んでいくのであればその内容は非常に楽しみである。ゼータの活動取材を中心とした本書の内容は十分興味深くはあったが、結局は「性的なケアも含めた丁寧な動物愛護を大事にしてます」と主張して、かつそれを「動物性愛者が実践するとこうなる」というものに感じた。つまり「動物愛護」の域を出ていない。そういう「批判されないようにした見せかけの対等」ではなく、「真の対等」が成立している世界があるとするならば、それがどのように成り立っているのか知りたいと思う。

 

  ちなみに、「動物の側から誘ってくる」という現象の真偽については下記動画をご覧ください。

www.youtube.com