イタリアンアルティメットダークネス日記

おませな小学四年生たちが綴るわいわいブログ

映画:「花とアリス」「花とアリス殺人事件」感想

 どうも、たけです。たけでしかないです。

 これはきっと好きだろうなという匂いがしたのでアニメ映画「花とアリス殺人事件」を、良かったので続けて前作の「花とアリス」を視聴しました。その感想です。2004年に実写映画で「「花とアリス」が、2015年にその前日章となるアニメ映画「花とアリス殺人事件」が劇場公開されています。

 

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実際には記憶喪失ものではないです。

 

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 発表順的には「花とアリス」の方が先ですが、劇中の時系列的には逆です。僕はこういうのはちゃんと発表順に見る派なのですが、先に「花とアリス殺人事件」がNetflixで目に留まってよくわからないままこちらを先に見ちゃいました。両方見てから思うのは、どちらかというとやはり発表順に見るべきだったなという感じです。とはいえこちら単体でも十分楽しめます。

 以下感想。

花とアリス殺人事件」

 アニメの質に対して少々気になるところはあり。ときどき背景に対して人物が浮いた感じになることや、声優のミスマッチ感など。「花とアリス」での役者が同じ役の声優をしているのですが、前作から10年たってるので声の年齢が違うからか、わりと違和感あり。あとは平泉成という「聞いただけでキャラクターの背後に声優の顔が浮かんできてしまう声」が二役を演じていることには「なぜに?」という疑問がわきました。名前のあるおじさん役が全員平泉成。「ロトスコープ」という、絵コンテを元に実写で演じて、その映像を元に絵を描く手法でやってるそうですね。そういう知識込みで見れば絵は味わい深い気もしてきます。

 生活空間を舞台にしたミステリー、そしてその中の青少年的原因。「それでも町は廻っている」を気に入った僕らがそういうのに弱いことはご存じの通りで、そういう物語というのはどうしたって好きにならざるを得ません。見終わったあと、爽やかに、じわじわと良さが響いてきました。アニメだから許される感じのほどよい現実離れ感もいけてました。よきでした。

 

花とアリス

 こちらはNetflixになかったのでiTunesストアでレンタルして視聴。かなりよかった。蒼井優鈴木杏の魅力がすばらしい。特に蒼井優...。当時16~18歳の二人の絶妙な垢ぬけてなさ。高校一年生であることがぎりぎり言い訳になるレベルの危うさ(ならないかも)。日常の場面を程よくユーモラスに描いているところも好きで、冒頭、花が電車に駆け込んだあと別のドアから駆け降りるところでハートを掴まれました。十分情報はくれるけど語りすぎない感じ。それぞれが足りないものを埋めようとしている。みんなで写真を撮るところ、花の告白、最後のバレエシーンなど、場面場面にたっぷり時間を使って見せてくれる感じもよかった。お腹いっぱいです。少しボケた、まぶしい感じの映像もよき。そこで鼻つまむかね!!!すばら。

 

 よくこんなトリッキーな話思いつくなぁ...。あと相手のこと「君」っていうのなんかむずむずしますね。以上!

Netflix:「全裸監督」1~3話 感想

 どうも、たけです。小学四年生にはまだ早い作品らしいですが、Netflixオリジナルドラマ「全裸監督」の前半を見た知り合いから寄稿がありました。以下、寄稿された文章。

 

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 最近話題になっている、あるいは広告が表示されすぎて話題になっている気にさせられている、Netflixオリジナルドラマ「全裸監督」の1~3話を見ました。広告を見て「これは見なくて良さそうだな」と思いつつ、念のため1話を見てみて、そこからは「悪口を言うためにはまず見ないといけない」と思ってがんばったものの、3話でギブアップしたので3話までの感想です。シンプルにおもしろくない。4話以降おもしろくなるとかだったらすみません。

 

 「快進撃」てきな爽快風の場面が連続するだけで、そういうので気持ちよくなるための派手なだけのお話だと思いました。主人公が「破天荒」なことが(異世界転生もの(全然読んだことありませんすみません)における)「チートスキル」なんでしょう。解決策と言えば大金を出すか掟を破るかというパワープレイばかりで工夫がない。主人公は内面のない寡黙な人物で、ときたまズバッと決断して派手なことをやってのけるブラックボックス。その決断への道筋や裏付けはおざなりで、人間性は浮かび上がってこず、ただ華やかな結果だけを羅列する。稼ぎたいのか何か高尚な信念があるのかもよくわからない。セットも役者もお金がかかっていて映えてはいるものの、他に響いてくるものがない。ラ・ラ・ランドか? ポルノを題材とした作品がまさしくポルノ的であるというのは納得でもありますが。

 

 僕のバイブルであるサリンジャーの『フラニーとゾーイー』(野崎孝訳を推奨(村上春樹訳ではなく))にあるゾーイーのセリフを思い出します。

テレビに関係してる他のみんなと同様さ、その点じゃ、ハリウッドも、ブロードウェイもおんなじだ。センチメンタルなものは何でもやわらかだと思ってやがる。残忍なものはなんでもリアリズム、暴力沙汰に発展していくところは何でもクライマックス、そこへ――」

「それを相手にその通り言ったの?」

「言ったともさ!

  「全裸監督」は「人間まるだし」「ありのまま」だとか言ってますが、実際には気持ちいいところだけ並べて脚色しまくりの爽やかにコーティングされた優等生コンテンツじゃないですか。アンチコンプライアンスどころかむしろごりごりに媚びきったセルアウト作品ですやん。裸を映せばリアルってか?性欲を肯定すれば人間まるだしか? てかドラマや映画であのくらいの裸体やセックスシーンが出てくるのってそんなに珍しいかね?この前テラスハウスでも出てきましたよ。

 

  「テレクラキャノンボール2013」は刺激的だったけれど「全裸監督」はうすら寒い。ノスタルジーとナルシズム。そしてこのストレスを晴らそうと思って翌日に「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を見たらこちらはかなりよかった。別格やないか。

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 以上、寄稿された文章でした。これだけ流行ってるんだしきっとおもしろいんだからもっと楽しんだらいいでしょうに。僕も大人になったら見てみよっと。

映画:「ムーンライト」感想

 どうも、たけです。夏をやっていたら更新が滞りました。

 今日は2017年にアカデミー作品賞を受賞した映画「ムーンライト」の感想です。Netflixで見ました。

 

 もともとはJAZZ DOMMUNISTERSの「illunatics feat. 菊地凛子」という曲の中でこの映画の話が出ていて、アカデミー賞を取っているということはすごいのでしょうと思って見てみました。全編を通して非常に美しい感じで、美しすぎな気もしますが、良い映画でした。

 

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 特に印象に残ったのが俳優のパワーです。主人公を年齢によって3人の俳優が交代して演じるのですが、これが絶妙に同じ主人公です。眼がすごい。演じている人物は代わるのですが、眼がずっと同じで、その眼こそが主人公の主人公らしさを物語っています。

 また、カメラワークもなんだかグッときました。主人公の眼が特徴的だと描きましたが、その視線にカメラが憑依するときの感じにグッときました。気になる人を視界の端で追う感じとか、あーーーってなりました。

 

 また、この作品にはアカデミー作品賞において「ラ・ラ・ランド」に勝ってくれたという恩がありますね。僕は「ラ・ラ・ランド」が途中で見るのをやめようかと思うくらいダメだったので。あれはインスタ映えの実写映画化でしょう。

 

 それほどおもしろいとは思いませんでしたが、そもそもエンタメ的なノリの作品じゃないですし、いい映画だなぁと思いました。以上!

聖書通読企画 その12 - ヨハネによる福音書 17-21章

 どうも、たけです。聖書通読企画、読んでる人いるんですかね。ヨハネによる福音書のラストです。

  

 

永遠の命

 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(17:1-3)

 え、そうなん??なんとなくはわかりますが。霊的な気付きを得ることが非常に重要なのはわかりますし、そういうことなんでしょうか。神とキリストを知ることというのはすなわち霊的に目覚める(悟る?)ということであり、それが天の国への入り口ということでしょうか。

エスの死

 わりと飛びますが、イエスが裁判にかけられて、ピエトがわりとかばったにもかかわらず民衆の圧で磔になり、死にます。

 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取るとイ「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(19:28-30) 

 「マタイによる福音書」ではこのあたりはもっといろいろあったと思うのですが、「ヨハネによる福音書」ではかなりあっさりでした。一緒に磔にされている罪人とのやりとりもありませんし、イエスが死ぬ前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだくだりもありません。イエスの死に伴って様々な超常現象が起きたことも書かれいません。さては、マタイ、盛ったのか???

復活

マタイによる福音書でもそうでしたが、イエスの復活というのは、書かれている内容だけでは、誰かがイエスの墓を暴いたのか、イエスが復活したのか、どちらとも決定できないというのがあります。それが魅力でもありますね。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去れられました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた場所に丸めてあった。 (20:1-7)

 マタイ~ではもう少しいろいろ書いてありましたね。なんとなくですが、ヨハネ~の方が素朴に思えてきました。まじでイエスにの栄光にやられちゃってる感じがします。マタイはイエスの教えを広めることにもっと神経を使っているように思います。それぞれですね。

 

本書の目的

 ヨハネによる福音書には「本書の目的」というアツいタイトルの章があります。

 このはかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:30-31) 

  これが最終章ではなく最終章のちょい手前に書かれているというのはよくわかりませんが。その10において、ヨハネ~では「奇跡による信仰」を認めているのではということを書きましたが、この文章を見るとそうでもない気もしてきますね。しるしを全て書くことは、「信じるため」という目的にそぐわないということなので。

 

 以上、「ヨハネによる福音書」でした。次回からは「使徒言行録」に進みます。

漫画:愛☆まどんな『白亜』

 どうも、たけです。今日はSNSでちらほら見かけて表紙買いした漫画、『白亜』の紹介&感想です。

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 この漫画は、“美少女は自らの愛を代弁する究極のモチーフと題し、女の子の絵を描き続けてきた”という美術家、愛☆まどんなのはじめての漫画作品で、「アートコミックス」としています。

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漫画に挑戦するにあたり、漫画家の山田玲司がサポートしたそうです。僕は特に彼女を追っていたということもないのですが、表紙にやられて購入しました。あと僕はヴィレヴァンにおいてそうな漫画が好きなので。漫画の装丁は明らかに「AKIRA」でした。

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 内容は百合テイストの群像劇です。そのかわいさと儚さとエロさと切なさと、てきなのが、きれいな絵で描かれています。上質な紙が使われていて、画集のような漫画でした。目の中に文字を描きこむ技が多用されていてそれが印象的でした。髪の毛の透明感がえぐい。

 なんというか、(雑なカテゴライズになっていたら申し訳ありませんが)百合とかBLとかに初めて触れました。この作品では胸ではなくまっすぐ女性器に向かっている感じがあって、胸が母性的な存在だとすると、百合的興味はまっすぐ女性的存在である女性器に行くものなのかな、と思ったり。

『欲望会議「超」ポリコレ宣言』 紹介&感想

  どうも、たけです。今回は哲学者の千葉雅也、AV監督の二村ヒトシ、彫刻家の柴田英里による県談集である『欲望会議「超」ポリコレ宣言』 の紹介と感想です。前回紹介した綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』とセットでオススメです。

 

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www.kadokawa.co.jp

 

概要

 公式の内容紹介と目次は次のようになっています。

哲学者・千葉雅也×AV監督・二村ヒトシ×現代美術家・柴田英里
エロ、暴力、心の傷、ホラー、ゾーニング、変態、炎上、#MeToo、身体、無意識……
「欲望」をテーマにこの世界を読み解けば、未来の絶望と希望が見えてくる――。

「現代人は、かつての、つまり二〇世紀までの人間から、何か深いレベルでの変化を遂げつつあるのではないか、というのが本書の仮説なのです。」―「序」より 


第1章 傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
第3章 普通のセックスって何ですか?
第4章 失われた身体を求めて
終 章 魂の強さということ

 この本がタイトルに掲げている「欲望」というのはずばり「性欲」です。三大欲求というと「食欲」「睡眠欲」「性欲」ですが、性欲だけは満たさなくても(個体としては)死なないのでちょっとノリが違いますよね。

ずっと感じていた憂鬱

 前回の記事と同じ構成で行きましょう。この本のキーワードに「お気持ち」というのがあります。僕がその辺に対して最初に憂鬱になったのは東京五輪のエンブレム問題でした。デザインというのは見た目だけの工夫じゃないわけですが、そうした素人にはわからないことがたくさんある業界のことに関して、「パクリ疑惑」が巻き起こった結果、専門家による検証を待たずして世間のみなさまの糾弾する声によって降ろされてしまったわけです。国家プロジェクトにおいてさえも、正当な手続きを経ずして市民の声でジャッジされてしまったことにショックを受けました。魔女狩りやん。

 人間が素朴に判断すると間違えてしまいがちであることから反省して構築してきた様々な理性的なシステムが、結局圧倒的な感情の圧によって突破されていくのは実に虚しいです。「推定無罪の原則」だとか、それこそ「表現の自由」だとか、そういうのは最重要の砦じゃないですか。なのに「お気持ち」がこれだけの実行力を持ってしまってる。

 こういうのはレビュー文化発達の悪しき側面なのかなとも思います。みんなの声が相手の価値を決めるわけです。自分が不快と思えばそれは不快なものであり、そしてそれは相手が悪いのですよと。悪いとかじゃないでしょうに。あと僕は「炎上」という現象がずっと大嫌いです。

この本の魅力

 この本の大きな魅力は、「いわゆる」なところの「ポリコレ」に囚われていないところです。「なんだかんだ言っても人間ってこうだよね」という話が進むので、人間性を無視したポリコレに辟易としてる人たちにとってはカタルシスがあるのではないでしょうか。僕もシステムシステム言ってますが、それはあくまで人間に寄り添ったものである必要があると思ってるので、この本は納得しながら読めました。「『差別はいけない』とみんないうけれど。」ではちゃんと理論的な話に終始していた一方で、『欲望会議』では(各人の豊富な知識・経験に裏打ちされたものがありつつも)文学的?人間的?な視点から話が進んで行きます。

 AV監督である二村ヒトシはわりと優等生的というか、優しい人で、脇が甘い部分もありつつ、しかしやはりアブノーマルな(しかし人間が出る)業界でやってる人としておもしろい具体例をたくさん出してくれます。彫刻家で炎上上等なフェミニストである柴田英里は、辛辣と言えば辛辣ですが、「実際のところこうですよね」「甘えんな」と言ってしまう鋭い切り口が持ち味です。そして千葉雅也がすごい。僕がこうした文系の世界をウォッチし始めたのがかなり最近なのでずっと名前も知らなかったんですが、少し前から千葉雅也のツイートがビシビシ来はじめて、この本でもすごかったです(『勉強の哲学』ではあまりピンとこなかった)。哲学者であると同時に、ゲイ当事者でもある千葉雅也ですが、まず知識量がなんだかえげつないだけでなく、ジャンプの具合がほどよい。様々な事象に対して、ちゃんと学問的な背景を踏まえた解説をしつつ、時には「突拍子もない」とも思えるような展開をしてくる(千葉雅也なりには突拍子もあるのでしょうが)そしてそれが説得力があるというキレッキレの言論で、おもしろかったです。千葉雅也すげ~~となりました。

 やっぱり、人間を相手にしてるんだから、人間のことを考えないとどうにもならないと思います。フロイトとかに興味出て来ました。馬鹿にできんでしょ。(「真理」とまで言うかは別として)こういう話をないことにしてたら人間理解は進まないと思います。

 

 以上、『欲望会議「超」ポリコレ宣言』 の紹介と感想でした。前回紹介した『「差別はいけない」とみんないうけれど。』と合わせてどうぞ。

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綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』 紹介&感想

 どうも、たけです。

 憂鬱な風潮がまかり通っている今日この頃。“今読むべき本” 第一位(たけ調べ)である、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の紹介と感想です。(ちなみに次回は第二位の『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』を扱います。)

 

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www.heibonsha.co.jp

 

概要

 上記サイトから内容紹介を引用します。

 セクハラや差別が跡を絶たないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫る。「週刊読書人」論壇時評で注目の、気鋭のデビュー作。 

 目次は次のようになっています。

まえがき みんなが差別を批判できる時代
第一章  ポリティカル・コレクトネスの由来
第二章  日本のポリコレ批判
第三章  ハラスメントの論理
第四章  道徳としての差別
第五章  合理的な差別と統治功利主義
第六章  差別は意図的なものか
第七章  天皇制の道徳について
あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

 「そうそうこれこれ!」という内容ですね。著者のノートでまえがきが公開されています。

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ずっと感じていた憂鬱

 もちろん僕も世の中から「差別による不幸」がなくなればいいと思っていますが、かといって世の「善良な人たち」が正義を振りかざしている様子にずっと不満がありました。差別する人のことを平気で差別して正義の鉄槌を食らわせようとするこの人たちは正義なのか?と。単純に自分の正義性をそれだけ強く信じられるということに、(差別主義者に対するものと同様の)恐ろしさを感じますし、また差別をなくすための政治戦略的な面でも、もっと相手の気持ちに寄り添って考えないとどうにもならなくない??と思います。

 例えば、(これは極端な見方だと自覚もしていますが)新潮45の問題が起きた時に新潮社に対して不買運動をしている人がいて、「新潮社から出版された」というだけで内容の是非に関わらず攻撃対象とするのはまさしく差別的では?と思いました。新潮社からも良本は出てるでしょうに。この人は「差別構造を無くす」ことではなく「特定の差別を排除すること」、あるいは「罰を与えること」が目的なのかもしれないと怖くなりました(デモとかストライキはそういうノリではないのでこわくないです)。

 また、この章の最初に「もちろん僕も世の中から「差別による不幸」がなくなればいいと思っていますが」と書いたように、僕は「差別による不幸」がなくなればいいと思いますが、「差別思想」がなくなればいいと思うかというと微妙です。人の思想にとやかく言う権利は僕にはないと思うので。幼児性愛者が幼児性愛的嗜好を持つこと自体は問題ないのと同様に、差別思想を持つこと自体は問題ないはずです(もちろん差別的行為によって他人を不幸にすることは迷惑です)。なので「差別的行為」だけでなく「差別的思想」を撲滅しようとするかのように平気で「正義の鉄槌」をやれる人たちが怖いです。僕は差別主義者が差別主義者のまま幸せになれる差別のない世界を目指すべきだと思います。

 「これは差別ではない」と言って差別する人や、「これは正義の差別である」と言って差別する人に対して「差別はいけない」といくら言ってもどうにもならないわけじゃないですか。(相対主義的見方が必要なことは当たり前の前提として)相手の立場に寄り添って説得しない限り、相手を納得させること、あるいは折り合いをつけることは難しいです。犬を食べる文化のある国に対して「日本では犬を食べないからお前も犬を食べるな」と主張することが的外れなのと同じです。そういう工夫をしない限り、結局は「ある考え方A」と「ある考え方B」との勢力争いにしか過ぎないわけです。善と悪でも、正義と悪でもなく、好きと嫌いの対決でしかない。今日もツイッターのトレンドに「#好きです韓国」と「#嫌いです韓国」が並んでいて憂鬱になりました。これらは同じです(もちろん平和を目的とする場合には前者の方が都合はいい)。そして勢力争いでやってる限り、声のでかさで決まってしまう。

この本の魅力

 長々と自分語りしてしまいました(ブログとはそういうものですよね?)。さて、様々な知識が不足した状態でそういう不満を抱えてる僕にとって、この本は非常にありがたかったです。自分が漠然と抱えている事柄に対して、様々な知見を引用しながらちゃんと筋を通して理性的に解説してくれてるからです。

 やはり何事も問題解決のためには相手側の立場に寄り添う必要があると思うのですが、この本では双方の立場を「シティズンシップ・ポリティクス」と「アイデンティティ・ポリティクス」の対立として分析します。これが非常に明解です。最初から最後までこの軸が通されていて非常にわかりやすいです。そして、その軸で説明できるということは、一連の問題というのが「考え方A」と「考え方B」の対立であり、善と悪の対立や正義と悪の対立といった単純な問題ではないということがわかります。また、「合理的な差別」「差別は意図的なものか」というテーマは非常に重要というか厄介というか、ちゃんと向き合わないといけない。

 また、刑罰に対する考え方としての「応報主義」と「帰結主義」から丁寧に説明したり、投票に関しても前提までさかのぼって説明したりと、本当にかゆいところに手が届く、一通り解説された本だったように思います。どれも重要な前提です。例えば「表現の自由」にしても、「ヘイトスピーチはダメだがこれはいい」というためにはちゃんと理論を固める必要があって、そこを雑にしたままただ「悪いから」と叫んでいては将来自分の首を締めることになるかもしれない。だからちゃんと前提となる理論を固めることが大事です。今世の中で起きているいろいろな事象に対して、解像度を高め、かつ本当の解決に向けて真摯に取り組むためにも、今読むべき本なのだと思います。

 

 以上、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の紹介と感想でした。次回の『欲望会議「超」ポリコレ宣言』 に続く。